アメリカン・スウィートハート
2005/7/28
America's Sweethearts
2001年,アメリカ,103分
- 監督
- ジョー・ロス
- 脚本
- ビリー・クリスタル
- ピーター・トラン
- 撮影
- フェドン・パパマイケル
- 音楽
- ジェームズ・ニュートン・ハワード
- 出演
- ジュリア・ロバーツ
- キャサリン・ゼタ・ジョーンズ
- ジョン・キューザック
- ビリー・クリスタル
- ハンク・アザリア
- スタンリー・トゥッチ
- クリストファー・ウォーケン
- セス・グリーン
- アラン・アーキン
- ラリー・キング
アメリカの“理想のカップル”といわれたグウェンとエディが別居して一年以上がたった。ふたりの新作の披露が近づくが、まだ編集が終わっていないことにプロデューサのデイヴはいらつく。デイヴは自分がクビにした腕利きの宣伝マンのリーにふたりのよりを戻してくれと頼むが…
豪華キャストのラブ・コメ、ハリウッドの内幕ものだが、中心となるキャストを豪華にしすぎたせいかゲスト出演などの小技が聞かなかったのが残念。
まあ、つまらなくはないけれど、これだけばらばらと主役級の役者が出てきてしまうと、どこが映画の中心なのかわからなくなってしまう。最初はビリー・クリスタルが主役かと思ったのに、途中からキャサリン・ゼタ・ジョーンズが主役になり、最後にはジュリア・ロバーツが主役に。最終的にはジュリア・ロバーツが主役ということでいいのだろうけれど、その割には彼女の役はパッとしない。ずっと日陰の存在だった女の人生が一変するという展開を狙っているのだろうけれど、特殊メイクで太らされたジュリア・ロバーツは前々デブっぽさを演出することが出来ておらず(“ジュリア・ロバーツ”を捨て切れていない)、しかも気が強すぎるような気もする。こんなにあっさりと爆発できるなら、三十何年間も日陰の存在に甘んじているはずもなく、人物像の構築がそもそもおかしいといわざるを得ない。
ラブ・コメというのは観客がその主役たち(基本的にはふたり)の立場にたって、面白おかしな恋の顛末をニコニコしながら楽しむというのが基本で、そこには明確なスタートとゴールがなくてはならない。本当は好きなのに障害があって、あるいは本当は好きなのに本当の気持ちに気づかなくて、でも障害を乗り越えて見事にゴールインする。その主プロット以外のプロットはだいたいがふたりの間に横たわる障害で、そのサブ・プロットの展開いかんでどんな顛末になる歌が決まるという感じ。
なのだが、この作品はまずスタート地点がはっきりしない。ジュリア・ロバーツ演じるキキがエディのことを好きだというのがなかなか伝わってこないし、だからゴールがどこにあるのかも見えてこない。映画の話はサブ・プロットとしては機能しているんだけど、ビリー・クリスタルはいったい何者なのか。キキを応援しているのか、ただの宣伝マンなのか。私は最初ビリー・クリスタル演じるリーもキキのことが好きで、リーとエディでキキを取り合いになって、最後にはクリストファー・ウォーケン演じるハルあたりがキキを攫って行ってふたりは愕然みたいな展開になるのかと思ったが、リーもハルも大して役割は果たさなかった。せっかくの豪華キャストなのに…
ハリウッドの内幕ものといえば、だいたいスターが本人役で登場したりして、誰が出てたかなんてのをあてるのもひとつの楽しみになるわけだが、この映画にはその楽しみもない。おそらく主要キャストにお金を使いすぎて、そこまでお金がまわらなかったのだろう。だから、砂漠の真ん中のホテルでマスコミを相手に完成披露をするなんていう全然ハリウッド的ではない展開になってしまったのかもしれない。映画として辻褄は合っているけれど、これはあくまでラブ・コメなんだから、辻褄が合おうとどうしようと楽しければいいはずだ。どんな映画にも登場するラリー・キングだけではなく、せめてブラピのひとりくらい出して欲しかったなぁ…
それから、グウェンの恋人のスペイン男ってのがちっとも血気盛んなラテン男に見えないのは、彼が「フレンズ」でフィービーの恋人のロシアに行ってしまう科学者を演じていたというマニアックな記憶を呼び起こしてしまったせいか、それとも彼がそもそもマッチョなキャラじゃないためなのか。っていうか、そもそもスペイン人に見えないんだけど…