仁義の墓場
2005/8/1
1975年,日本,94分
- 監督
- 深作欣二
- 原作
- 藤田五郎
- 脚本
- 鴨井達比古
- 松田寛夫
- 撮影
- 仲沢半次郎
- 音楽
- 津島利章
- 出演
- 渡哲也
- 梅宮辰夫
- 山城新伍
- ハナ肇
- 室田日出男
- 多岐川裕美
- 池玲子
- 郷えい治
- 田中邦衛
- 成田三樹夫
敗戦後すぐの新宿、闇市を舞台に四つの組織が縄張りを争っていた。そのうちのひとつ河田組の石川力夫は野津組を襲い、さらに兄弟分の今井らとともに三国人の賭場に決定的なダメージを与えた。傍若無人な石川の行動には組長の川田も手を焼くようになる…
『仁義なき戦い』で一大旋風を巻き起こした深作欣二が渡哲也を主演に迎え、実在の伝説的なやくざ石川力夫の生涯を描いた力作。
この映画が扱うのはひとりのやくざの生涯である。やくざものの映画というのは数多くあるが、一人の実在のやくざの生涯を描くというのはなかなか変わった趣向ではないかと思うのだ。それはやくざ映画というもののそもそもの性質によるものかもしれない。やくざ映画とわれわれの現実とが交差することは基本的にはありえないはずだと思うのだ。
私はあまりやくざものの映画というのは観ない。そして、一般的に映画としての格もあまり高いとはいえない。しかし今でもやくざものというのは人気があり、次々と新しい作品が作られる。
そのギャップはどこにあるのか。
誰しもワルにあこがれる頃がある。その一番の原因は反抗心からだろう。何かに対する怒り、世間でも親でも何でもいいが、とにかく何かに対して怒っているから、それを覆してやろうとワルに走る。それはある意味では非常にまっすぐな行為である。漠然としてはいるかもしれないが、何か目標があり、そこに向かってまっすぐ突き進む、それならばそれはすごくまっすぐで面白い物語が生まれるもとになりそうでもあるのだ。
やくざものではないいわゆる任侠ものは好きだ。それは、そこに登場する人々が自分がやくざものであることを自覚して、どこかで世間から一歩引いているからである。特に勝新の作品にそのようなものが多い。座頭市も悪名もそんな人情に厚い任侠ものを描いた作品である。しかし、やくざものとなると、そこに登場するのはまさに傍若無人のやくざものである。
何かの目的があったり、世間との関係が有ったりすることはほとんどなく、ただただそのやくざの世界の中だけの話に終始してしまう。
そうなってしまうと、私にはリアリティが感じらない。その世界に入り込むための足がかりを見つけることが出来ないのだ。しかし、それでもこのジャンルが人気があるということはどういうことだろうか。
それはこのジャンルの映画が体現しているものが、ひとつの形式化された「男の幻想」の形なのだということを意味するのではないかと思う。強姦した女が自分に惚れるという「幻想」の形が象徴しているのは、自分ひとりの力(腕力)によって周囲をコントロールするという男の欲望=幻想である。そしてその幻想がひとつの世界として完結する場が「やくざの世界」なのではないかと思うのだ。もちろんその「やくざの世界」という場は幻想の産物に過ぎないが、本当にリアリティを感じる空間とは自分が抱える幻想の空間であるのではないかと思う。
そのようにして自分が「自分の力でのし上がろうとする男」であるとして映画の世界に入り込んで初めて、やくざ映画の登場人物に自分を同定することが出来る。そのように映画に入り込めば、チャカを扱ったり、賭場に出てみたり、周囲を見下したりすることで、何らかの快感、つまり欲望の(幻想的な)充足を味わうことが出来るのである。
そのような幻想の形を持つことは悪いことではないどころか、むしろいいことなのだと思う。映画がエンターテインメントであるということはつまり、そのような幻想の空間に身をおいて、現実では満たされない欲望が満たされるということに他ならないのだ。
ただ、今思うのは、そのような力による支配が現実に可能だったのが、ここで描かれている戦後の社会だったということもいえるということだ。戦後すぐ日本の都会に筍のように生まれた闇市はヤクザによって支配されていた。そして、その筆頭に上げられるのが歌舞伎町を支配していた石川力夫なのだ。
闇市という新生日本の明るさと暗さの両面を象徴するひとつの要素は彼とともに生まれた。彼はただ単に闇市によって暴利をむさぼっていたわけではなく、上からの改革によってはどうにも立ち行かない社会をしたから変えて行った当事者の一人でもあるのだ。
彼は単にヤクザだったというだけではなく、社会の変革者でもあったというわけだ。もちろんそれによって彼の犯罪的な行動が許されるというわけではないが、当時の日本という社会がそのような弱肉強食の社会に他ならなかったということを考えなければならない。戦後と比べてしまえば安穏とした今の社会に住むわれわれが、彼の人生と行動にリアリティを感じることが出来ないのにはそれなりに理由があるのだ。そのリアリティの感じられなさという部分に戦争と戦後の持つ意味を感じることが出来る。ヤクザが必要悪であったような時代、戦後とはそのような時代だったのだろう。それは、彼らのもたらす秩序が完全な無秩序より多少はましだったということであり、それだけ社会と政府が脆弱だったということである。
ヤクザ映画を見ながら、そんな戦後という時代を思うのだ。