アトミック・カフェ
2005/8/8
The Atomic Cafe
1982年,アメリカ,89分
- 監督
- ケヴィン・ラファティ
- ジェーン・ローダー
- ピアース・ラファティ
- 音楽
- リチャード・バス
- デヴィッド・ダナウェイ
- リチャード・ウルフ
- 出演
- ドキュメンタリー
1945年8月6日の広島への原爆投下に始まり、アメリカ政府とアメリカ国民が原水爆についてどのような態度を撮り、どのように認識してきたのかを、ニュースフィルムや陸海空軍の教育用/PR用フィルムで綴ったいわゆるアーカイヴ・ドキュメンタリー
パロディ精神に溢れた3人組の監督はアメリカの核兵器に対する認識の甘さを皮肉たっぷりに描くが、それは観客にどれくらい伝わるのだろうか。
この作品が素材にしているのは40年代から50年代にアメリカで作られたフィルムの数々である。まず広島や長崎やそしてビキニ環礁での被害についてまったく語られないということに驚きと苛立ちを感じる。果たしてこれはその被害を伝えるような素材がアーカイヴに残っていなかったということなのか、それともこの作品の作り手がそのような素材を作ることを避けたのか。広島や長崎の被害はここで書き上げるまでも無いと思うが、ビキニ環礁では13年間で66回の核実験が行われ、島に残った人々、島から非難した人々のどちらも結果的には大部分が被爆してしまった。これはある意味ではアメリカによる核爆弾の人体実験である。それをこの映画は伝えない。
そして、この作品においてもっとも観客の興味を惹くと思われる、核攻撃を受けたという想定の演習、この演習前の最後のブリーフィングで強調されるのは「放射能が取るに足らないもの」ということである。それに勇気付けられた兵隊たちはまだキノコ雲が立ち上る爆心地に向けて歩を進める。これも実は陸軍による兵士の被爆に対する耐性を調査する人体実験であったという背景があり、この演習に参加した兵士の中に原爆症の症状を見せる兵士が現れたのはもちろんである。しかし、それもこの映画は伝えない。
もちろん、世界で唯一の被爆国である日本に住む私たちは放射能の恐ろしさを知っているから、この映画が語らないことの意味はよくわかる。だから、この映画を見ながら空恐ろしい感覚を覚え、アメリカの無知の恐ろしさに戦慄するわけだが、しかし、この映画の狙いとはいったいどこにあるのだろうか。
この映画がもし、そのような放射能の恐ろしさを知っている(大部分の)人々を対照としているのなら、この映画のシニカルなパスティーシュとしての笑いは効果的だろう。しかし、そのようにして“昔の”アメリカに対して毒を吐くことにどれくらいの意味があるのか。ただ昔のアメリカを笑うことに何らかの建設的な意味を見出すことが出来るのか。そう考えると私はさらに暗い気分になってくる。なぜならば、それは際限なく虚しいことであるからだ。この作品を製作した3人組はアーカイヴの調査と映画の制作に5年の歳月をかけたそうだが、そのような空々しい笑いを観客から引き出すことだけが狙いだとしたら、それはあまりに虚しいからだ。
だとしたら、まだ世界中に存在している放射能の恐ろしさについて無知な小数(と信じたい)の人々に向けてこの作品は作られているのだろうか。そう考えると、この作品の放射能の被害の不在というものの意味が見えなくなってくる。放射能の恐ろしさについて無知な人々に対しては、その被害の恐ろしさを伝えてこそ意味があるのではないか。この作品は逆にその無知を強化することになりかねない。
「伏せて隠れろ」というキャンペーンの無意味さはさすがに伝わると思うが、それだけで何が語られるのか。この作品の欠点はどのような観客を想定して作られているのが見えてこないということだ。資料として存在するフィルムだけによって構成されているというのは非常に面白いし、その奥にある何かを読み取ることは可能だが、そこで読み取られるものはそれぞれの観客に問題意識な問題の認識レベルに左右されてしまう。
特に、この作品で何度も取りざたされる“神”、「神の望む形で原爆を使う」などというたわごとも本当に神を信じる人にはどう映るのか。アメリカの牧師たちがあまりに好戦的なことに私は驚きを感じるが、彼らの考え方を所与のものと考えるアメリカの“善良な”市民たちにはどうなのか。
そう考えると、私にはこの作品はどうもエリートの自己満足を満たすための作品のように見えてきてしまう。自分が知っていることを実証し、それを笑う。そこに何かひねくれた悪意のようなものを感じてしまうのは私だけだろうか。