土と兵隊
2005/8/9
1939年,日本,155分
- 監督
- 田坂具隆
- 原作
- 火野葦平
- 脚本
- 笠原良三
- 陶山鉄
- 撮影
- 伊佐山三郎
- 横田達之
- 音楽
- 中川栄三
- 出演
- 小杉勇
- 井染四郎
- 見明凡太郎
- 伊沢一郎
- 山本礼三郎
中国への上陸作戦が敢行される前夜、第二分隊長玉井伍長は隊員13名を集め、隊の結束を誓い、翌日の戦いに備えて眠るよう行った。翌日、先陣を切った彼らは的から浴びせられる砲火の中を突撃するが、伝令に発った乗本一等兵が銃弾に倒れる…
火野葦平の<兵隊三部作>の一作「土と兵隊」の映画化。いわゆる戦意高揚映画のひとつで戦後GHQに接収されたが、68年に返還され、再公開された。オリジナルは155分となっているが、現在のプリントは120分なので、どこかで一部欠落したようだ。
「戦争とは歩くことだ」とこの映画の中で兵士の一人が言う。この映画を見る限りそれは真実だ。兵士たちはひたすら歩き、時々戦う。この映画の90パーセント以上は歩くシーンと戦闘シーンである。特に、前半はほとんどが歩くシーン、後半はほとんどが戦闘シーンという感じ。
前半の歩くシーンは、全身を続ける日本軍というイメージを構築し、日本軍の威光を表現することに成功していると思う。彼らは広大な中国大陸の奥へ奥へと歩を進め、その土地を皇国の傘の下に治めて行くのである。しかし、今見るとこれは中国という国のあまりの広大さをも表現してしまっているように見える。歩いても歩いてもたどり着かない目標地点、その目標地点にたどり着いても、その先にまだまだ広大な土地が広がっている広大な国、その国を征服することの困難さが現在の視点からは見えてくる。
後半の戦闘シーンはやたらと長く、しかしあまりドラマティックではない。とにかく銃を撃ち合い、砲弾を撃ち込み、じりじりと前進する。このあまりに長い戦闘シーンは今見ると単調ですらあり、眠気を催させもするのだが、もちろん戦中にはこれが戦意高揚の効果があるとされたわけである。この戦闘シーンの何が見ている人々を戦争に、あるいは愛国心に駆り立てたのか。
私が思うに、それはここに登場する兵隊たちの格好よさになるのではないか。今見ると、兵士の現実があまりに過酷で逆に反戦映画にもなりうるのではないかと思うが、当時の人々はそのような過酷な状況に負けずにお国のために命を賭して戦う兵隊たちにまぶしいほどの輝きを見たのだろう。特に兵隊に憧れる子供たちにしてみれば、ここに映っている兵士たちは銃を撃って敵兵を倒し、お国に身を捧げる英雄なのである。
だから、ここに登場する兵隊たちは怪我を負っても戦線を離れることを呪い、死しても国のためを思う。戦死者は出るが、彼らがむごたらしく死んで行く様は描かれないし、戦死するのは伝令ばかりで、戦闘に破れて死ぬというよりは卑怯にも背後から撃たれて死ぬという形をとっている。彼らの死は卑怯は敵に立ち向かうための更なる理由となるだけなのだ。
この作品を観ながら思ったのは、これが現在のハリウッド映画(たとえば『プライベート・ライアン』)にあまりにも似ているということだ。主人公たる兵士は決して死なず、決してくじけず、決して引かない。そして、私心を犠牲にしてでも戦友のために尽くす。この「戦友のために」というのは日本の戦時中の戦意高揚映画におけるキーワードのひとつである。基本的にはお国のために戦っているわけだが、個別具体的に言えば“お国”という漠然としたもののためというよりは家族やそしてともに戦う戦友のために戦っているのだ。それが現在のハリウッド映画にも通じる。ハリウッド映画に登場する兵士たちは上層部の権力には反感を覚えることもあるが、ともに戦う戦友のためには命を賭ける。それがヒロイズムというものであり、それは結果的に国のためにもなるのだ。それは、国家をある意味でひとつの家族とする考え方の結果出てくる構造である。戦時中の日本においては天皇という父のもとに国がまとまり、現在のアメリカでは神という父のもとに国がまとまる。現実には当時の日本も現在のアメリカもそのような一枚岩の国家ではもちろん無いのだが、国の中の誰かが目論む国家像とはそのようなものであり、それが映画という形で具体化しているのだ。
もちろん、それがすなわち、当時の日本と現在のアメリカというふたつの国家の類似性を示すものではない。しかし、当時の日本の映画が人々を戦争に駆り立てるプロパガンダ映画という要素を強く持っていたということを考えると、現在のハリウッド映画もまたそのような要素を持っていると考えうるということは無視できない要素である。実際にハリウッドでは戦争が近づくと戦争映画が数多く作られるとも言われる。
映画がプロパガンダであったのは過去の話ではないのだ。