暁の脱走
2005/8/10
1950年,日本,116分
- 監督
- 谷口千吉
- 原作
- 田村泰次郎
- 脚本
- 谷口千吉
- 黒澤明
- 撮影
- 三村明
- 音楽
- 早坂文雄
- 出演
- 池部良
- 山口淑子
- 小沢栄
- 清川荘司
- 伊豆肇
- 若山セツ子
昭和二十年、中国の前線にある本部に戻ってきた兵の中に敵の捕虜になっていた三上上等兵と、慰問団の女春美がいた。三上は女とともに捕虜となり、生きて帰ってきたことから、軍法会議に回されることは確実となり、その報告書のために、事態を語り始める…
GHQ占領下で作られた戦争映画、軍国主義否定の色彩が強く、戦時中とは別の意味のプロパガンダ映画という印象を受ける。
これは完全に、戦中の戦意高揚映画と逆のプロパガンダ映画である。日本の悲劇は軍を私物化した将校にあり、彼らの理不尽さが無用の犠牲者を生んだとこの物語は語っている。
主人公の三上上等兵は正直な兵士であった。お国のために働き、上官の命令には素直に従う帝国陸軍の善き兵士、その彼が否応無く悲劇へと巻き込まれて行く物語なのである。このように物語が展開されるポイントとなるのは、彼が軍国主義教育によって心理に対して盲目になっているとされている点である。彼は善人だが、軍国主義によって歪められ、真理が見えなくなってしまっているというのだ。その彼が女の愛と、敵国の人間主義的な考え方に感化されて目覚めるというのがこの物語の主眼である。
それはまさに、戦後の日本人に対して占領軍が求めていたことである。戦前の思想を捨て去り、民主主義思想を取り入れること、この主人公の三上上等兵はいち早くそれを実践しているのである。
しかし、この映画はその目的に対して合目的的に作られすぎているがゆえに破綻をきたしてもいる。三上上等兵が捕虜となった中国の軍のイメージは欧米の理想的な軍のイメージそのもので現実味に欠けているし、彼の所属する軍隊の将校たちはそろいもそろって悪人ぞろいである。階級が上がるにしたがって悪人の度合いも上がる、そんな単純な図式にあまりにはまりすぎている。このような合目的的なつくりがこの映画がプロパガンダ映画であることを証明してしまう。GHQがこの作品に対して具体的に指示を与えたとは思えないが、この作品が作られた1950年にはまだGHQの検閲は機能しており、映画が公開されるためにはGHQの意向に従う映画を作らざるを得なかった。その意向とはつまり、軍国主義の否定なのである(この頃にはもうそれに反共産主義も加わっていたが)。
そのような軍国主義の否定という目的のために粉飾されているということを差し引いても、日本の軍部にこのような要素(不正)があったことは確かだろう。というより、ありとあらゆる軍、そしてありとあらゆる官僚組織にこのような不正と不条理は存在しているのだと思う。イラクにおける米軍の人権蹂躙事件を見ても、日本の官僚の不祥事を見ても、それは明らかだ。
問題は、そのような不正を生み、温存するシステムがどこにあったのかということだ。軍隊のようなトップダウン式の組織では上位のものの権力が強力になるのは避けられないことなのだ。だからこそそれをコントロールする機構が必要なわけだが、当時の日本軍にはそのような機構が存在していなかったか、あるいは機能していなかった。強大な権力を持った人間の多くはその権力に頼って自分の欲望の虜となり、他者の犠牲から目をそむけるようになるのだ。
そのあたりから、責任の所在というか、どこに非難の矛先を向けるべきなのかという疑問が生じる。この戦争で死んでいった人々の死をどのように考えたらよいのか、この主人公の死をどう捉えたらいいのか、欲望に駆られた個人の責任に帰するのか、巨大な不正のシステムを温存した日本軍(の上層部)に責任を帰するのか、それとも戦争という異常な状態の性にするのか、それともわれわれ自身がその咎を受けるべきなのか。
それは単なる戦争責任という問題ではない。彼らの死を無駄にしないためにわれわれは何をすべきなのかということだ。
しかし、そう考えることは、私がその責任の一端を担う覚悟があるということなのかもしれない。彼らの死に責任があるからこそ、その死に報いようとするのかもしれない。しかし同時に私はこの主人公の無念や怒りも旧友する。ならば、私はその責任を誰に帰するべきかを追及することによって彼の無念を晴らそうと目論んでいるのだということもいえるのかもしれないのだ。
しかし、その責任を追及することが何になろう。それを追求したところで彼らの死に意味が生まれるわけではない。やはり彼らの死に私たちが報いるには、私たち自身が何かをしなければならないのだ。他に責任を擦り付ける誰かを見つけるのではなしに。