南の島に雪が降る
2005/8/16
1961年,日本,104分
- 監督
- 久松静児
- 原作
- 加東大介
- 脚本
- 笠原良三
- 撮影
- 黒田徳三
- 音楽
- 広瀬健次郎
- 出演
- 加東大介
- 伴淳三郎
- 有島一郎
- 西村晃
- 渥美清
- 桂小金冶
- どんぐり三太
- 志村喬
- 三橋達也
- 細川俊夫
- 森繁久彌
- 三木のり平
- フランキー堺
- 小林桂樹
昭和19年ニューギニア、敵軍に囲まれて補給路を断たれた兵隊たちは“定期便”と呼ばれる毎日の空爆を警戒しながら生き延びるために畑で芋を作り、何とか餓死を逃れていた。そんな中、衛生兵の加藤軍曹はみなの気晴らしのために兵隊の気晴らしのために劇団を作ることを上官に提案する。
加東大介のニューギニアでの実際の体験を書いた原作の映画化。死と隣り合わせの兵隊たちの姿は涙を誘う。
この映画でまず衝撃的なのは、ニューギニアという戦場の悲惨さだ。数多くの兵隊が戦死し、また餓死する。戦死はともかく、餓死というのはひどい話だ。加東大介がいた地域では何とか食って行くことだけは出来たようだが、それでもまさに死と隣り合わせの日々だったはずだ。
そのように生きるだけで精一杯の中で芸能を見せるという発想が生まれ、それを実現する。兵士たちも積極的に協力し、死を前にして最後に一度でも舞台を見たいと望む。もちろんそこには加東大介の演劇人としての自負から来る多少の誇張ないし美化があるのだろうが、しかし人々がわずかな食料よりもその舞台を見ることを望んだことは確かだろう。そしてそれはその舞台が彼らを故郷へと返してくれるから、本来あるべき日常の世界へと返してくれるからだ。本来非日常であるはずの戦争が日常にすりかわり、本来の日常が非日常へと後退してしまう。そんな中で日常のあまりの厳しさを忘れるために非日常へ逃避する。それは人間にとって当たり前の反応だ。そのためには生きるために必要な食料も削る。そこにはただ生きるだけではない人間の本質があるような気がする。
そして、彼らの故郷への思いをさらに強めるのは、彼らが故郷から離れた土地に死ぬ運命にあるということだ。彼らは死んで魂となっても故郷の土地に帰れるかどうかわからない。彼らは舞台の中に故郷を見出し、もし死んでしまったとしてもそこに帰れるようにと祈るのだ。「死ぬ前に雪を見たい」という兵士の気持ちは雪を見ることで彼の心は故郷に帰る事が出来るからだ。
そしてもちろんさらに悲惨なのは小林桂樹演じる小林伍長らの絶滅部隊の生き残りたちだ。映画の序盤で彼らは「死んだ英霊」と呼ばれ、「一度全員戦死と言ったのを覆せない」から軍隊の組織からこぼれ落ちてしまうのだ。それは前言を覆すということにまつわる面子の問題、面子をつぶされることによる恥の問題と絡んでくる。この面子という問題は決して戦時中に限った話ではない。現在、実現性の薄いプルサーマル計画が止まらないのも、目的がはっきりしない諫早湾の干拓も、やると言ってしまったからやるという面子の問題が多分に絡んでいるのだと思う。日本人の官僚組織にとって面子とはそれほどまでに重要なものなのだ。
そんな面子の犠牲となって彼らは飢えて死んで行く。そのつらさに胸が張り裂ける。加東軍曹ら演芸部の面々も彼らをどうすることも出来ない。ただ演芸によって彼らを慰めるしかないのだ。
そのような事態を生んでしまうのはもちろん軍部の構造のせいである。彼らはいったい何のために死んで行くのか。彼らの死の責任は誰が取るのか。全ての戦争映画はそんな疑問をわれわれに突きつけてくるようだ。