五人の斥候兵
2005/8/19
1938年,日本,78分
- 監督
- 田坂具隆
- 原作
- 高重屋四郎
- 脚本
- 荒牧芳郎
- 撮影
- 伊佐山三郎
- 出演
- 小杉勇
- 見明凡太郎
- 伊沢一郎
- 星ひかる
- 潮万太郎
- 北竜二
北支戦線の前線基地、岡田部隊長は兵たちに休息を取らせながら、今後の方針を検討していた。翌日いやがる負傷兵を病院車に乗せると、本部から敵陣の様子を探るため斥候を出すよう伝令を受けた。そして、藤本軍曹以下五人の斥候兵が敵陣へと向かった…
戦中、戦地の兵隊の勇猛果敢な様子を銃後の人々に見せて戦意高揚を図ろうと作られた映画のひとつ。
この映画がプロパガンダ映画であることは間違いがない。しかし、この劇中に登場する一等兵が死の恐怖に打ち克つ源泉となったのが、戦友であり、お国のためという意志の力であることもまた間違いが無い。そして、それが実際に戦場に赴いた兵士の一部あるいは大部分にとっても事実であったことは想像にかたくない。
ならば、この映画の、この一等兵の精神を、プロパガンダ映画の産物として簡単に片付けてよいのか。これが合目的的に作られた誤謬であることを認めたとしても、そこに含まれる一片の真実のかけらを無視してしまってよいのか。そこに秘められた真実にこそ目を向けなければならないのではないか。
私は別に愛国心に駆られてこのようなことを書いているのではない。私が考えるのはそのような皇国の思想なるものに突き動かされて戦場に散って行った名もなき兵士たちのことだ。彼らは国のために文字通り命をかけたわけだが、私たちは彼らのおかげで今この生を授かっているとは言い切れない。彼らが信じ、命を賭けて守ろうとした国体は雲散霧消し、私たちは別の歴史を生きはじめた。
そのように考えるとき、彼らの死とはいったいなんだったのか。彼らはまったくの無駄死をしてしまったのか。彼らは非難されるべき軍事独裁=全体主義の一部に過ぎなかったのか。彼らは確かにそのシステムの一部ではあった、しかし彼らが身を捧げたのはそのようなシステムに対してではない。彼らが身を捧げたのはそのような漠然としたものではなく、むしろ家族や戦友という身近なものだ。この作品を観ていると、戦場の兵士にとっては戦友が全てであり、戦友のために戦うことこそが国のために戦うことであるという考えがそこに溢れていることに気づく。
これはひとつにはこの作品が国家主義のからくりを図らずも明かしてしまっているということを意味する。つまりお国のため、天皇のためという漠然とした目的によっては人々を戦争に駆り立てることが出来ないから、戦友のため、家族のためという具体的な目に見える守るべきものを持ち出して、彼らを説得しなければならないのだ。
日本の兵士とは日本のシステムの犠牲者である。そして、彼らに殺されたアジアの人々もまた同じシステムの犠牲者なのである。そのシステムを動かしていた人間は誰か、そこに兵士たちは含まれないのかという問題は残るにしても、戦場で命を賭けて戦った名も泣き兵士たちはそのシステムの犠牲者であると私は信じたい。そのように信じて、犠牲者たる彼らを悼むことによって初めて、その彼らに殺されたアジアの人々の死に本当に責任をとることが出来るのではないか。わたしたちはそのようにして兵士たちを死なせ、アジアの人々を殺したシステムを生み出した国の後継者であるという意味で彼らの死に責任があると同時に、そのシステムの犠牲者たる兵士たちの子孫としてその死を悼み、そのシステムを呪う権利があるのだ。
このプロパガンダ映画を作り上げたのはそのシステムである。私たちが作り、そして同時にその誤謬の犠牲となったこの映画を見ながら、この戦争によって死んだ人々の死を悼み、不戦の誓いを固くする。私がすることはただそれだけである。