ビルマの竪琴
2005/8/26
1956年,日本,144分
- 監督
- 市川崑
- 原作
- 竹山道雄
- 脚本
- 和田夏十
- 撮影
- 横山実
- 音楽
- 伊福部昭
- 出演
- 安井昌二
- 三國連太郎
- 浜村純
- 内藤武敏
- 西村晃
- 春日俊二
- 北林谷栄
- 沢村国太郎
- 中村栄二
- 三橋達也
- 伊藤雄之助
1945年、ビルマを命からがらタイへと逃げ延びようとする井上小隊は水島上等兵の爪弾く竪琴にあわせて歌を歌い士気を鼓舞していた。やがて小隊は国境近くの村にいたる。その村で敵軍に囲まれ万事休すかと思いきや、水島の竪琴にあわせて英兵が歌を歌い始めた…
市川崑が竹山道雄の原作を映画化、一部でビルマロケも行った意欲作。市川崑はこの題材にこだわり、85年に再映画化している。
戦地で終戦を迎えた人々、彼らは命からがら逃げてきて、ようやく生きて帰れる望みを手に入れた、と私たちは普通に考えるわけだが、軍国主義教育の洗礼を受け、捕虜となることよりも自決することをよしとする思想を心から信じていた人々もいた。そして、そのような上官に率いられた隊は日本の降伏後も徹底抗戦に出て多くの命を落としてしまった。
この映画では水島上等兵が、そのようにして徹底抗戦の構えを見せる舞台に説得でかけるところから物語が展開して行く。そして、この映画の眼目はその降伏を勧めに行くやり取りの部分に込められている。水島は戦い続けることの無意味さを訴えるが、兵隊たちは日本が降伏したということが飲み込めず、依然として戦時の秩序に従って、隊長のいうことに従う。中には水島のいうことに耳を傾けようとするものもいるのだが、隊長の権威に逆らうことが出来ず、突撃の号令に従う、その空気が痛々しい。
十数年にわたる戦争は彼らの体に染み渡り、彼らの行動は一朝一夕では変わらないようになってしまった。三國連太郎演じる隊長のように戦時においても戦争に流されること無く振舞っていた人は相変わらず自分を維持できるが、そうでない人は戦争にすがり付こうとしたり、戦争を一切脱ぎ捨ててしまおうとしたりしがちなのだろう。戦争にすがり付こうとする人は周りを巻き込んで命を投げ出す。戦争を一切脱ぎ捨ててしまおうとする人は、かつての敵国に対して卑屈になり、ただただ帰る事だけに全ての望みを注ぐ。
この物語の主人公水島は、彼らとはまったく違う体験をする。彼は戦争にすがりついたがゆえに無駄に死んで言ってしまった人々を目撃し、さらにそこからの旅の途中で累々たる死体の山を見るのだ。日本という国のために死んで行った人々の恐ろしいほどの数の死体、その死体を見た水島はその死の意味を問わずにはいられない。彼らが命を描けたものとはいったいなんだったのか、彼らの死とは無駄なものだったのか。戦争が終わったことによって、日本が負けたことによって彼らの死は無駄になってしまったのか、そのような思いが彼を悩ませ、他の兵隊のように国に帰って、何食わぬ顔で新しい生活を始めることができなくなってしまうのだ。
彼はビルマの地に倒れた兵士たちの死が無意味であることに耐えられず、せめて彼らを葬って、彼らの魂が救われることを願う。その無意味な死をわが身から振り払うことができなければ、彼は戦争を脱ぎ捨てることが出来ない。それは彼もまたその無意味な死の、究極的に無意味な死の本当にすぐそばまで近づいたからだ。彼が近づいた死はまったく無意味な抵抗による死、命を懸けるべきものが何も無いのにそれに命をかけた結果訪れた死なのである。
その死をどう考えるのか、それはいまだわれわれに突きつけられた課題でもある。靖国神社の問題にしても、そもそもは戦争で亡くなった人々に対してどのような態度をとり、彼らの死をどのように考えるのかという問題であるはずなのだ。
この作品では現地の人々はそれほど日本軍に対して敵意を見せない。水島の懸命の姿に打たれて彼が日本兵の遺体を埋葬する作業を手伝うくらいだ。それと比べると『野火』では米兵のジープに乗り、米軍の軍服を着た現地人の女が投降して来た日本兵を撃ち殺すというシーンがある。彼女は日本人によって蹂躙されたアジア人の怒りを象徴する存在である。場所によってそのような怒りの大きさには差があるだろう。その怒りが一番大きいのはもちろん中国と朝鮮半島の人々である。だから、靖国神社の参拝問題で中国・韓国・北朝鮮が強硬な態度を見せるわけである。
靖国神社の問題は政治的な要素が多分にあるので、なかなか理解しがたいが、私は素朴に、先の戦争で亡くなった全ての人の死を悼みたい。彼らの死を無意味なものとしないために、われわれの生が彼らの死に報いるものとなりうるように、そのためにまず彼らの死を悼まなければならないと思うのだ。