サイドウォーク・オブ・ニューヨーク
2005/8/30
Sidewalks of New York
2001年,アメリカ,107分
- 監督
- エドワード・バーンズ
- 脚本
- エドワード・バーンズ
- 撮影
- フランク・プリンツィ
- 出演
- エドワード・バーンズ
- ヘザー・グレアム
- ロザリオ・ドーソン
- デニス・ファリナ
- デヴィッド・クラムホルツ
- ブリタニー・マーフィ
- スタンリー・トゥッチ
ニューヨークの街角で「初体験はいつ?」というインタビューを受ける人々。そのうちの一人トミーは恋人に家を追い出され上司の家に居候、歯科医のグリフィンは19歳の大学生アシュレーと不倫中。バンドマンを目指しながらドアマンをするベンジャミンは別れた妻にしつこく迫っていた…
ニューヨークに暮らす男女の恋愛模様をドキュメンタリータッチで描いた作品。エドワード・バーンズが一人で監督・脚本・主演を努め、ウッディー・アレンを目指しているの? という感じ。
サイテー男グリフィンをめぐる寓話だと思えば面白いのだが、全体的に見ると教条主義的過ぎるという感じもする。基本的な形態としては群像劇という形を取り、だいたい6人くらいの中心人物がそれぞれどのような価値観と人生観とセックス観を持っているのかということを描いて行くという話なわけだが、全体的なまとまりは今ひとつではないか。
映画の序盤はグリフィンという自己中心的なサイテー男を中心に描き、彼の言動の身勝手さに男のガキっぽさを見る。そしてそれをベンジャミンが補強するという構造を取る。それに対して女性は基本的に分別があり、弱くはあるが自分なりの価値観を持った存在として描かれている。そこにトミーが現れる。トミーは基本的には浮気もしない分別もある大人の男で、女性に対して誠意を持って接し、自分を律する。そしていつからかそのトミーが物語の中心となって行く。彼は誰がしているのかわからないインタビューで「自分はカトリックだから」と語り、その分別や貞節を宗教と結びつける。
そしてそのうち、ガキっぽさを象徴していたはずのベンも新たな出会いによって分別がつき、自分は「真面目なユダヤ教徒なのに」と言って宗教を口にする。女性たちはそれぞれに決断をし、それぞれの道を進んで行く。
最終的に明らかになるのは、グリフィンというサイテー男を突き動かしていたものが怖れだったということだ。ベンジャミンのバンド仲間が終盤で突然インタビューの対象として登場して、誰だって怖いんだというようなことを口にする。これはどう考えてもグリフィンのことをさしていて、グリフィンが自分の怖れ、自分の自信のなさを複数の女と関係を持ち続けることで覆い隠そうとしていたということを明らかにするというわけだ(彼の自信のなさは自分のペニスのサイズを異常に気にするという言動に端的に表れている)。
このトミーとグリフィンの対比、宗教に結びついた分別と怖れから来る無軌道な振る舞いの対比、これがこの映画全体を覆う構図である。もちろん宗教は前面に出てきてはいないのだが、この映画全体を見渡してみると、そこに宗教という要素が存在している事は否定できない。しかもこの作品は、トミーを演じているエドワード・バーンズが脚本を書き、監督もしている作品なのである。
別に穿った見方をするつもりはないが、ここでエドワード・バーンズがやっている事は、独りよがりの自慰行為のようなものなのではないか。不分別でガキっぽい中年の男と対比させる形で自分を主人公として登場させ、まるで彼の行動によってすべての人(グリフィン以外)が真実の道を歩き始めたかのように描く。これはなんだか非常に気持ちが悪い。彼はこの映画によって物事の複雑さや人間の価値観の多様性を描こうとしているように見える(あるいはそのように見せている)のだが、その結果現れたのは一元化された価値観である。それは、「人を愛せ、そうすれば怖れから解放される」ということである。愛とはグリフィンが言うように与え合うことではなく、一方的に与えるものなのだ。トミーは相手に何も求めない。ただ与えて、待つ。人々はそれによって自分を見つめ直し、自分が何を与えられるかを考えるようになる。それがマリアが言う「人生を見つめなおす」ということなのだ。
しかし、人生も愛もそんなに単純なものではないだろう。別に彼の考え方を否定するわけではないが、この物語のようにわかりやすい結末がいつも訪れるなら、それはお伽噺でしかない。この映画はお伽噺でしかないのに、どこかリアルさや複雑さというものを装っている。そのいやらしさがどうも私には気に入らない。