アップタウン・ガールズ
2005/8/31
Uptown Girls
2003年,アメリカ,93分
- 監督
- ボアズ・イェーキン
- 原案
- アリソン・ジェイコブズ
- 脚本
- ジュリア・ダール
- モー・オグロドニック
- リザ・デヴィッドウィッツ
- 撮影
- ミヒャエル・バルハウス
- 音楽
- レスリー・バーバー
- ジョエル・マクニーリイ
- 出演
- ブリタニー・マーフィー
- ダコタ・ファニング
- マーリー・シェルトン
- ドナルド・フェイソン
- ジェシー・スペンサー
自分の誕生日パーティーにやってきたミュージシャンのニールに一目惚れし、彼とうまくいった金持ちの娘モリーだったが、その後彼から連絡はなく、さらに死んだ父親の財産管理人がお金を持ち逃げして無一文に。仕方なく音楽プロデューサーの娘レイの子守として働くことにしたのだが、ふたりはまったくそりが合わず…
ダコタ・ファニングとブリタニー・マーフィーが共演したコメディ、軽快なテンポで最後は感動とお決まりの形ながらなかなか楽しめる。
ダコタ・ファニングといえば、子供らしくない子供の役がピタリと来る。さすが天才子役というだけあって、その子供らしくない冷静さの底に隠された子供らしい感情を演じるのもうまい。そして、それに周囲の大人は気づかず、いまだに大人になりきれないモリーだけが気づく。それはよくあるパターンということもいえるが、ある程度の普遍性を持ったテーマだということだろう。今の社会では、多くの子供が大人の社会のスピードに置き去りにされて子供らしさを失ってしまう。子供というのは器用だから、それでも何とか大人について行って、しかも大人に気を使って平気な顔をすることも出来る。でもやっぱり子供は子供。
さすがに、この映画の母親のローマほど典型的な子供をなおざりにする母親というのはなかなかいないと思うが、両親の共働きが当たり前となり、忙しくて子供に接する時間がないという家庭には多かれ少なかれそのような要素は存在しているのではないか。
だから、この作品は古きよき時代の暖かい家庭を懐かしむという雰囲気もないわけではない。しかし、そのような家庭の崩壊の象徴ともいえる離婚が題材とされていないところを見ると、それよりももっと根本的な人間と人間のつながりというモノを描こうとしているように見える。モリーのような大人も子供も分け隔てなく見ることが出来る人間、そのような人間がいたら、周りの人たちは幸せになれる。最後にニールが「彼女に魔法をかけられた僕ら」と言うように、彼女のような単純な人間によってこそ、人間性の一部を失ってしまった現代人は救われるのだと、大げさながらこの映画は言っているのだ。
もちろん、彼女みたいな人が近くにいたら迷惑だが、彼女を見て笑いながら、自分から失われた何かを思い出す事は出来る。だからどうということはないが、そのことだけで心に暖かいものがこみ上げればそれでいいのだろう。
この映画のもうひとつ重要な要素といえるのは“父の死”だろう。モリーには父の残したギターのコレクションがあり、レイには脳卒中で意識不明の父親がいる。モリーは無一文になってしまったことで父のギターを手放さなければならないかも知れなくなり、レイの父親はいつ死んでしまうかわからない。つまり、ふたりとも父親を失ってしまう瀬戸際にあるのだ。“父の死”というのは子供が大人になる上で非常に大きなひとつのステップであり、壁でもある。レイはその壁にいつぶつかってもいいように武装して、そのために大人のように振舞っている。モリーはその壁に対する心構えが出来ておらず、父の形見にすがり付いている。このふたりが、実際に“父の死”を迎えたとき、どのように反応するのか。そこにこの映画のもうひとつの眼目がある。
その壁を乗り越えて大人へまた一歩踏み出したとき、失いがちなものを失わずに持ち続けていられるのか、それもまた重要なことだ。その重大な局面に直面したふたりの女の子がお互いを理解し、お互いを必要とし、お互いを助けようとする物語、それがこの物語だと思うと、ほほえましく見ることが出来る気がする。たとえそれが、非現実的なほどのお金持ちであるアップタウンの女の子たちでも。