イージー・ライダー
2005/9/1
Easy Rider
1969年,アメリカ,95分
- 監督
- デニス・ホッパー
- 脚本
- ピーター・フォンダ
- デニス・ホッパー
- テリー・サザーン
- 撮影
- ラズロ・コヴァックス
- 音楽
- ザ・バーズ
- 出演
- ピーター・フォンダ
- デニス・ホッパー
- アントニオ・メンドーサ
- ジャック・ニコルソン
- カレン・ブラック
メキシコでマリファナを売買し大金をもうけたふたりのヒッピーがその金をガソリンタンクに隠してニュー・オリンズまでの旅に出る。途中ヒッチハイカーを拾い、ヒッピーの村へ行き、ドラッグに溺れ、セックスに溺れる。
69年という時代を見事に描いた現代版西部劇、低予算ながら大ヒットを記録し、デニス・ホッパーの名を世間に知らしめ、“アメリカン・ニュー・シネマ”の時代の幕開けを宣言した名作。
恥ずかしながら私は“アメリカン・ニュー・シネマ”の事はよく知らないし、作品もあまり見たことがない。だからこの作品が“アメリカン・ニュー・シネマ”の代表的な作品だといわれても、それをどう考えていいのかわからない。だから、そのようなジャンル論からは離れて感想を書いて行かざるを得ないわけだが、そもそも私はそのような映画のジャンル化というものにあまり興味がない。それもひとつの見方ではあるが、映画というのは一つ一つの作品にこそ意味がある(意味がなければならない)のであって、それが映画史上でどのような意味を持つかということは二の次のはずだと思うのだ。と、とりあえず言い訳しておく。
まあ、しかしとりあえず、この映画の映画としての新しさというか、斬新さとは何かを考えて見ると、まずは映像面だろう。シーンが切り替わるときのフラッシュバックのような映像がまず目に付く。これは映画がリアルであろうとし続けた映画史に対する反抗であり、それはヒッピーというドラックに仲介された幻覚文化の映像的な表現であるだろう。そして、それが伝統的な映像手法を破るものであるということは、車座になったヒッピーたちをぐるりと一周撮る1カットのシーンによって決定的に示される。これは観客をスクリーンの外に置き続けるという伝統的なハリウッドの作法を明らかに破り、観客をスクリーンの内側という幻想的世界に引き込むものである。
さて、この映画の素朴な感想は「格好いい」ということだ。大平原の一本道を走るバイク、そのバックにかかるロック・ミュージック、その映像は彼らを現代のヒーローに仕立て上げる。しかし、このようなヒーローを「格好いい」と思う条件付けはどこでなされたのか。彼らはこの映画を見てもわかるように、この時代においてはアウトローだった。人々から白い目で見られ、挑発というだけで攻撃の対象となるような社会に対して反抗していた。そのアウトロー、反抗というものへの憧れ、彼ら格好よさは観客たちのその憧れから出ているものだ。
社会に反抗するということの格好よさ、それはある種普遍的な格好よさだ。だから、この映画もずっと格好いい映画であり続ける。そして、それはこの映画が伝統的なハリウッド映画に対して反抗しているという事実によっても補強される。保守的なものに対する反抗、それは若者が新しい文化を生むときに必ず現れる現象だ。この映画で反抗の象徴だったロックはもはや社会のメインストリームに取り込まれてしまったが、ロックという言葉は、そのような反抗精神を表す象徴的な言葉としていき続けている。音楽としてのロックではなく、精神としてのロック、この映画が象徴しているのはそんなロックであるだろう。
漫然と見ていたら、退屈でたまらないこの映画に何故ひきつけられるのか、それはこの映画がロックの精神を持ち続けているからだ。ロックというのは反抗しながらも、その先に新たな理想の建築を夢見るというロマンティックな考え方だから、ついつい引き込まれてしまうのだろう。