イット・ケイム・フロム・アウター・スペース
2005/9/4
It Came From Outer Space
1953年,アメリカ,81分
- 監督
- ジャック・アーノルド
- 原作
- レイ・ブラッドベリ
- 脚本
- ハリー・エセックス
- 撮影
- クリフォード・スタイン
- 音楽
- アーヴィン・カーツ
- ヘンリー・マンシーニ
- ハーマン・スタイン
- 出演
- リチャード・カールソン
- バーバラ・ラッシュ
- チャールズ・ドレイク
- ラッセル・ジョンソン
- ジョー・ソーヤー
天文学者のジョンは恋人のエレンと夜空を見上げていたときに、近くに巨大な隕石が墜落するのを目撃する。すぐに墜落現場に駆けつけたジョンは、そのクレーターの底で宇宙船らしきものと生き物らしいものを目撃するが、その直後崖崩れが起きて宇宙船は埋まってしまう。ジョンの証言は保安官にも科学者にも信用されず、ジョンは一人調査を続けるが…
レイ・ブラッドベリ原作によるエイリアン・パニックの古典的作品。特殊効果やアクションで見せるのではなく、エイリアンとの遭遇に人間がどう対処するのかということを描いた力作。
エイリアンもののSFとしては地味な作品という印象は否めない。肝心のエイリアンがあまり怖さを誘発しないというのがその大きな理由だ。彼らの狙いが何なのかは隠されたまま話は進んで行くのだが、実際に彼らが人間に恐怖を与えるということはほとんどないのだ。それよりむしろ人間が勝手に彼らに対する恐怖を募らせ、彼らを排斥しようとする。
このような展開は原作者ブラッドベリの卓見だと思う。エイリアンというのは常に他者としてわれわれの前に現れ、われわれはそれが他者、異質なものであるというだけでそれを拒絶し、排斥しようとする。ここではそれが異星からの客という象徴なものとして現れたわけだが、それは外国人であっても、自国内の価値観の違う人であっても、ロボットであっても同じこと。他者という異質なものを前にして人間は防衛本能に身を固めるのだ。
この映画はそのような人間を描いている。何も危害を加えているわけではないのに、他者であるというだけでその人々を排斥し、あるいは殲滅しようとする。それは映画の中だけでなく、日常生活においてもたびたび見られる光景だ。アメリカでも、日本でも、アラブでも、相手が「他者」であるということになれば、それは絶対的に理解不可能な存在となり、そこから生まれるのは対立しかない。しかし、ブラッドベリは、そのような他者とは常に絶対的に理解不可能な存在であるわけではないといいたいわけだ。「他者」のように見えるものとも理解しあう可能性は常にあるし、その可能性を追求することこそが成熟した存在であるということだ。
侵略もののエイリアン映画というのはエイリアンは常に他者であり、人間と他者の対立の中でどちらが勝つのかという殲滅合戦の様相を呈する。それが面白いのは、その物語が人間の他者に対する恐怖心を表現したものであり、その恐怖心から来る好戦心をあおるからである。それが本当に絶対的な他者(たとえば完全にコミュニケーションが不可能であり、人間を餌にすることしか考えていない『エイリアン』のエイリアン)であればその物語は観客をワクワクさせるのだ。しかし、そのような単純なエンターテインメントだけがエイリアン映画ではない。エイリアンという他者を象徴する存在を使って、その他者との理解可能性を表現する、そのようなエイリアン映画もあっていいし、それはそれで面白い物語になるはずだ。
小説の世界ではそのような物語が多いというか、そのようなどこかで理解可能な存在でなければ、物語になりにくいから、ほとんどが他者との対立とコミュニケーションがテーマになっている。ブラッドベリの小説の多くもその例に漏れない。しかし、映画では他者との殲滅合戦という単純な物語の方が多い。物語だけを取れば面白と思えるこの映画がどうも退屈に見えるのはやはり文字と映像というメディアの違いなのだろう。このような哲学的ともいえるエイリアン映画を作るのはなかなか難しい。