パッチギ!
2005/9/5
2004年,日本,119分
- 監督
- 井筒和幸
- 原案
- 松山猛
- 脚本
- 羽原大介
- 井筒和幸
- 撮影
- 山本英夫
- 音楽
- 加藤和彦
- 出演
- 塩谷瞬
- 高岡蒼佑
- 沢尻エリカ
- 揚原京子
- 尾上寛之
- オダギリジョー
- 光石研
- 余貴美子
- 大友康平
- 前田吟
1968年京都、もてたいがためにマッシュルームカットにした松山康介とその親友の紀男は朝鮮高校の起こした事件に巻き込まれ、その翌日、担任の先生から朝鮮高校にサッカーの親善試合を申し込んでくるよう言いつけられる。怯えながら朝鮮高校に行った康介はブラスバンドでフルートを吹くキョンジャに一目惚れしてしまうが、彼女は朝鮮高校の番長アンソンの妹だった…
60年代の在日朝鮮人と日本人の関係を高校生の視点から描いた青春ドラマ。朝鮮分断の悲しみを歌った“イムジン河”が効果的に使われ、カバーによってその曲を有名にしたフォーク・クルセイダーズの元メンバー加藤和彦が音楽を担当している。
在日韓国朝鮮人と日本人の関係、帰国船、朝鮮高校・朝鮮大学の地位など現在も尾を引く在日韓国朝鮮人の問題が取り上げられ、今の日本人がそれをどう考えればいいのかということを問題提起するきっかけになる映画である。そして、それを“イムジン河”という印象的な曲に乗せ、高校生の恋愛というすごく甘酸っぱいプロットに絡ませることで、感動的に観客に味合わせる。これはもう完全に、お涙頂戴のメロドラマ、特に60年代に青春を送り、それこそフォーク・クルセイダーズなどを聞いていた世代にはたまらない映画となるだろう。
確かにその部分は面白いし、単純なお涙頂戴に引っかかってついつい感動してしまうのだが、この映画がより多くの部分を割いているのは朝鮮高校と日本の高校の不良同士の対立・抗争である。この物語の流れだと、それもまた日本人と在日韓国朝鮮人との対立の一部として描かれているのかと思うが、決してそういうわけではない。ちょっとハングルを習って、イムジン河を練習した康介はあっさりと朝鮮高校の不良たちに受け入れられてしまう。そこには「朝鮮人だから、日本人だから」というこだわりは見えない。彼らがやる喧嘩は日本人の高校生同士がやる喧嘩と基本的には変わらず、言ってしまえば井筒監督自身が以前に監督した『岸和田少年愚連隊』の焼き直しでしかない。
ただのメロドラマではなく、そこに不良っぽさとか、喧嘩のアクションとか、そういうものを入れることによってエンターテインメント作品っぽくする。確かに今の日本映画にはわざとらしいアホみたいな感動ものばかりが溢れて見る気も起きない映画が多いことを考えれば、このように少しひねった作品の方が見てみようという興味は沸く。しかし、この作品はそのアクションや不良のエピソードの部分にあまりに多くの時間を割きすぎて全体が冗長になってしまった印象があるし、いったいこの不良同士の抗争に重点があるのか、それとも朝鮮人と日本人の高校生の恋愛に重点があるのかわからなくなってしまっている。そしてその結果、ドラマの全体に今ひとつ一体感がなく、それぞれのプロットが別々に展開してしまっているような印象を受けるのだ。もう少し互いのプロットが絡み合い、複雑ながら一つの大きなドラマを構成していたなら、ぐっと引き込まれる映画になったような気がする。
“イムジン河”というすごくよい素材、観客を感動させることも出来れば、朝鮮半島で起きたことを象徴的に示すことができる優秀な素材があるのだから、主人公の康介がその“イムジン河”を歌うことによってぶつかる困難や迷いや、その歌の持つメッセージに関する疑問のようなものを前面に押し出して、そこから様々なドラマを派生していったらよかったのではないかと思った。
もちろん現実では、物事はそんな単純には解決しない。一曲の歌によっても、喧嘩によっても、簡単にふたつの民族が心を通わせることなど出来ないのだ。この映画は結局そのようなリアルに立ち返った。それはそれでひとつの選択だと思うし、そのことによって今も問題になっている様々なことを考える基点にはなると思う。しかし、一本の映画としてのまとまりという意味では大分弱くなってしまったし、この映画の全体がリアル・ドラマの体裁を取っていないから、そのようなリアルで拡散して行くような結末というのはなんだか拍子抜けでぼんやりしたものになってしまったのだろうと思う。