浮雲
2005/9/11
1955年,日本,124分
- 監督
- 成瀬巳喜男
- 原作
- 林芙美子
- 脚本
- 水木洋子
- 撮影
- 玉井正夫
- 音楽
- 斎藤一郎
- 出演
- 高峰秀子
- 森雅之
- 中北千枝子
- 岡田茉莉子
- 加東大介
- 山形勲
幸田ゆき子は引揚げてきて早速、戦中に仏印で知り合い愛し合う仲となった富岡を訪ねる。戦争中は妻と別れて一緒になると言っていた富岡だったが、いざ帰ってみると妻を捨てることが出来ず煮え切らない態度をとっていた。家も仕事もないゆき子が、途方にくれて夜の盛り場を歩いているところでひとりのGIに声を掛けられる…
巨匠・成瀬巳喜男の代表作のひとつにして、世界の映画史に残る恋愛映画の傑作。戦争の記憶を引きずった男女の複雑な心情を淡々と、しかし情熱的に描いた。
この映画は非常に暗い。基本的には恋愛映画なのだが、映画を観終わった印象は、いわゆる恋愛映画とはまったく異なっている。この映画の主人公のふたりの恋愛は、恋愛というよりは因縁、あるいは情念、恋というよりは縁、愛というよりは情と行ったほうがいいようなものだ。だから、映画を観終わっても、恋愛映画を見たという気がしないし、果たしてこのふたりの恋愛が映画の中心だったのかどうかもわからなくなる。かといって何か他に映画の中心になるものがあるかというとそうでもなく、あえて言うとしたら幸田ゆき子という一人の女の物語であるということだけだが、しかし単純に一人の女を追ったというわけでもない。
そのように考えいくと、この映画が扱っているのは実は幸田ゆき子という一人の女とか、主人公ふたりの恋愛とか言う個別具体的なものではなく、もっと抽象的なレベルも題材なのではないかという気がしてくる。もちろん具体的に登場するのは幸田ゆき子と富岡なわけだが、そこには同時代に生きるあらゆる女性の姿が象徴化された形で込められているのではないかと思うのだ。
まず、この映画を支配しているのは“戦後”という状況である。映画の冒頭、再会した二人が町を歩くとき、最初に通りかかるのは闇市である。ふたりはそこをただ素通りし、連れ込み宿に入る。そしてそこでゆき子は「日本はすっかり変わった」と言う。ここで感じるのはその「変わった」という言葉に込められたさめた感覚である。ゆき子が「日本は変わった」と言うとき、その変わった中に自分自身は入っていない。その言葉に込められているのは日本を離れている間に日本はすっかり変わってしまい“自分の居場所がない”ということだ。だから、日本から疎外されてしまったと感じ、日本の社会の中に居場所を見つけられないゆき子がカフェーの女給などではなく、GIのオンリーになるのは実は論理的必然なのだ。
そして、富岡が本当にしょうもない男であるにもかかわらず、ゆき子が富岡から離れられないのもまた必然なのだ。現在の社会に場所がない彼女は過去とつながるしかない。そして彼女がつながりうる過去とは、富岡か“兄さん”と呼ぶ伊庭しかないのだ。
そして、富岡とのつながりのほうがより強い。それは、富岡との関係というのが実は彼女を日本の社会から疎外している原因であるからだ。ゆき子が日本の社会から疎外され続けているのは、彼女が戦時中に仏印にいたからであり、そこで優雅な生活をしたからである。そのために彼女は内地で空襲に怯えながら頑張っていた人たちと異なる過去を抱えてしまった。そして、内地にいた人たちに対して負い目を感じてしまっているのではないだろうか。それは富岡も同じで、富岡の場合には妻に対して「待っていた者たちに申し訳ないような気がする」と発言することでその負い目が表面化している。ゆき子は明確にその負い目を語ってはいないと思うが、厭世的な態度がそれをあらわしているし、そのように厭世的になり、社会から隔絶されることでふたりは否応なしに結びつくのである。
そのようにして、ふたりは世間に対して負い目を感じ、世界から隔絶されているているからこそ、何をやってもうまくいかないのだ。彼らが堕ちて行くのはふたりの要領が悪いからではなく、彼ら自身がその負い目に押しつぶされ、結果的にそれを償おうとしてしまっているからである。
それにしても、富岡はしょーもない男だ。
成瀬の映画には情けない男がたくさん出てくるが、この映画の富岡という男はその中でも指折りに情けない。ゆき子はその富岡を「あなたはそういう人よね」という言葉で片付けてしまう。そこに表れてくるのは女の強さだ。女の芯の強さというのも成瀬の映画のひとつのモチーフである。特に戦後の作品では、男が情けなく自虐的になっているところで、女はその不遇な境遇に負けずに強く生きる。とくに林芙美子の原作の作品で、そのような傾向が強く見られるような気がする。 どうしてそのような構図になるのだろうか。戦後の成瀬の映画の男女のイメージを抽象化して考えてみると、そこに描かれる女というのは、自活しているけれど情けない男とくっついていて離れられない、そんな女だ。この『浮雲』のゆき子もまさにそう。この映画の場合には戦争の「負い目」という問題が覆いかぶさることで見えにくくはなっているけれど、基本的な構造は同じだ。
そして、その男女の関係にもやはり戦争の影が見えるような気がする。戦後すぐの日本の男女の違いというのは、戦争に対するコミットの仕方の違いが非常に大きいのではないかと思う。男は戦争に行き、負けて帰ってきた。女は日本で頑張り、負けて帰ってきた男たちを迎えた。男たちのほうにより強いであろう「負けた」という気持ちが男たちを萎えさせる。もちろん、そんな記憶は引きずらず、新しい日本で意気揚々と新しい生活を始めた男もたくさんいる。しかし成瀬が注目するのはその負債を引きずって生きるようなナイーブな男たちなのだ。
それに対して女たちは戦争中にやっていた「たくましく生きる」ということを続ける。そしてさらに、戦争の痛みをぬぐいきれないナイーヴな男たちを労わってやるのだ。
この変化は実は根本的な社会の変化なのではないだろうか。戦前には女は男に付き従うもの、男は女を守るものという封建的な秩序が存在した。しかし、戦争によって女は自立し、さらには男の“弱さ”を知った。そして相対的に自分が“強い”ということを知るのだ。「戦後、強くなったのは女と靴下と世間」だというときの「女が強くなった」という言説が意味するのはそういうことではないかと思う。実は女が強くなったのではなく、男が弱くなった。この映画はまさにそのことをイメージでわれわれに伝える。