山の音
2005/9/22
1954年,日本,95分
- 監督
- 成瀬巳喜男
- 原作
- 川端康成
- 脚本
- 水木洋子
- 撮影
- 玉井正夫
- 音楽
- 斎藤一郎
- 出演
- 原節子
- 上原謙
- 山村聡
- 長岡輝子
- 中北千枝子
- 杉葉子
- 丹阿弥谷津子
- 角梨枝子
- 金子信夫
尾形家の嫁菊子は義父の信吾にかわいがられ、幸福な生活を送っていたが、夫の修一は遅くまで家に帰ってこず、女のかげがちらついていた。そんな中、夫と折り合いの悪い修一の妹房子が実家を飛び出して転がり込んでくる。信吾は実の娘の房子よりも菊子にやさしく振舞って房子の反感を買う…
原節子と老夫婦の話ということで、小津作品を思い出すが、この作品に流れる空気は小津のとはまた別の種類のもの。成瀬が描こうとしているのは親子ではなくあくまでも夫婦の関係なのだ。
夫婦とは何なのか、成瀬は原節子を子供のいない専業主婦という立場に押し込んでそれを問おうとしている。成瀬は一人の俳優に同じような役柄を繰り返しあてることが多いのだが、原節子にはこの子供のいない妻という役柄をあてている。『めし』では同じ上原謙との(『夫婦』でも原節子の夫婦を起用する予定だったらしいが原節子が休養中であったため杉葉子が代わりに演じた)、『驟雨』では佐野周二との夫婦を演じている。そのどれもが倦怠期にある子供のいない夫婦で、しかも仕事を持たず昼間は家にこもって家事労働ばかりをしているのだ。
そして、夫に女がいるということが大きな問題となって夫婦間に亀裂が走る。この作品はその亀裂が生じることそのものを描いている。夫がどうして女を作ったのか、そして妻と義父の関係がどうしてそこまで親密なのか、その理由はこの作品では具体的には述べられていないが、その関係こそが亀裂を生む原因であることを語り、そのような関係が生じた原因には、夫婦が互いに相手によって埋められない部分を持っていることが考えられるとほのめかされている。
上原謙演じる修一は妻のことを「子供だ」と盛んに言う。妻には女としての魅力がかけているというのだ。それは的外れな指摘ではない。むしろ全ての原因はそこにあると言ってもよいのだ。菊子は精神的な子供っぽさを持っているがゆえに、父親に庇護されることを求めている。本来は夫がその役割を果たすべきなのだが、自分自身も子供っぽさを持っている修一にはそれが出来ず、菊子はその父親の役割を義父に求める。修一のほうは自分の満たされない部分(精神的に寄りかかれる存在を求めているということ)を他の女に求める。彼はその女・絹子に暴力を振るうと繰り返し言及されるが、それは彼の子供っぽさの表れである。子供っぽいわがままがゆえに、自分の要求を聞き入れられないと暴力に訴える。そんな子供っぽさが彼を妻から遠ざける。
ふたりは互いを愛していないわけではない。しかし、双方の子供っぽさがその結びつきを疎外している。封建的な価値観から言えば、包容力のない情けない夫が原因ということが出来る。両親が主張するように二人だけで所帯を持って修一に責任感が生まれればそれで解決するのだと。しかし成瀬はそれでは済ませない。現代社会においては夫婦は平等であって、妻も自分の権利を主張するべきだという考えを持っている。
そのために問題はさらにこじれる。菊子が自ら決断をすることで物語りは大きく転換する。菊子はそこで大人になるのだ。大人になることで義父に対する精神的な依存をやめ、自立した個人となる。修一は子供のままで情けなさを露呈する。菊子が自立したことでいきなり複雑な立場に置かれた義父信吾は菊子や修一の愛人の絹子に女の強さを教えられるのだ。
自立した女と情けない男、成瀬の映画には常にその構図が付きまとう。