ストレンジャー・ザン・パラダイス
2005/10/1
Stranger Then Paradise
1984年,アメリカ=西ドイツ,90分
- 監督
- ジム・ジャームッシュ
- 脚本
- ジム・ジャームッシュ
- 撮影
- トム・ディチロ
- 音楽
- ジョン・ルーリー
- 出演
- ジョン・ルーリー
- エスター・バリント
- リチャード・エドソン
- セシリア・スターク
ニューヨークに住むハンガリー移民のウィリーはクリーブランドに住む伯母さんに、ブダペストからやってくる従兄弟のエヴァを入院している間預かってくれと頼まれる。ウィリーはいやいや承諾し、エヴァとも何をするわけでもないが、なんとなく親近感がわいた頃、エヴァはクリーブランドに行ってしまう。
ジム・ジャームッシュがアメリカ映画界に大きなインパクトを与えた長編デビュー作。カンヌ映画祭でカメラ・ドールを受賞。
この映画は何も起こらない映画である。何もしていない青年のところに従兄弟がやってきて、何もしないで過ごす。そして一年後、青年はいかさまギャンブルでちょっとした金をもうけて従兄弟のところに行く。書いてしまえばそんな話、まったく何も起こらないに等しいし、まったく意味はない。
でも、この映画は面白い。映画のファーストシーンは非常なローアングルで電話とベッドを映したカットから始まる。そこにウィリーがやってきて電話を取るが、映るのは体だけだ。それでもカメラは動かない。電話を取るウィリーの顔を映すより、ドアを捕らえることを重視しているからだ。このシーンには違和感があるが、それはこの映画のひとつのパターンであり、徐々にそれが気持ちよくなって行く。この作品のほとんどは1シーン1カットであり、シーンの中に長い“間”が入ることがよくあるが、この何も起こらない“間”はその後に何かが起きることの予告であり、観客はその後に起きることをただ「待つ」。それが端的に表れるのは、映画の終盤でエヴァが麻薬の売人に出会うシーンである。これはまさしく「待つ」ということの面白さを実感できるシーンである。
この「待つ」ということはこの映画を特徴づけるものだ。観客も待つし、登場人物も待つ。そして待っている間に物語りは展開する。ウィリーとエディーが競馬に行っているを待つエヴァ、エヴァがビリーを送って行くのを待つウィリーとエディー、その待っている間に待たされている側は何かを考え、観客も何かを考える。
もちろん、待ったって必ず何かがやってくるというわけではない。しかし、待たなければならないのだ。待つということはじれったくいらだたしいことではあるけれど、そこには時間が与えられている。待っていれば何かいいことがあるかもしれない。もちろん悪いこともあるかもしれないが、とにかく彼らは何かを待っている。待ってみて、結果が出て、それから考えればいい。
非常に無為に見える彼らの生き方とはそのようにして何かを「待つ」生き方なのである。何かを待ち、偶然によって方向付けられ、その方向に進んで行く。無気力といえば無気力だが、それで何とかなるんならそれでもいい。
ジャームッシュはこの作品にさらりとアメリカ批判のようなものを織り込んでいる。最初にエヴァがウィリーのところにやってきたときに、ウィリーのTVディナーに疑問を投げかけたり、アメフトについて説明できないウィリーに対してくだらないゲームだといったり、アメリカ的なものをことごとく否定して見せるのだ。別にことさらにアメリカを批判し、アメリカを拒否しているというわけではないが、いわゆるアメリカらしさに違和感を感じているように見える。
彼らの「待つ」という姿勢もいわゆるアメリカ的なものと対照的なもののように思える。未来が不明瞭な時代に、ただ「待つ」という姿勢を貫く若者、それは無気力なのか、それとも現実的なのか。計画を立て、勇猛果敢に困難に立ち向かって行く若者よりも、このようなただ「待つ」若者に共感を覚えてしまうのは何故なのか。
そんなことを考えると、このなんでもない映画が、まさに時代の鏡であるという気がしてくる。曖昧な時代の曖昧な映画、なぜかわからないが面白い。