不思議な村
2005/10/18
The People
1971年,アメリカ,74分
- 監督
- ジョン・コーティ
- 原作
- ゼナ・ヘンダーソン
- 脚本
- ジェームズ・M・ミラー
- 撮影
- エドワード・ロッソン
- 音楽
- カーマイン・コッポラ
- 出演
- キム・ダービー
- ダイアン・ヴァーシ
- ウィリアム・シャトナー
- ダン・オハーリヒー
- ローリー・ウォルターズ
新しい生活をはじめようと考えたメロディは、教師のいない人里はなれた孤立した村で教師になることを決める。しかし、その村の人々はむっつりと押し黙り、つねに足を引きずって歩く奇妙な習慣を持っていた。子供たちもまったく子供らしさがなく、メロディは戸惑うばかりだが、そのひとりフランチャーと徐々に仲良くなる…
ゼナ・ヘンダーソンの原作をフランシス・フォード・コッポラが製作したTVムービー。TVムービーとしてはかなり良質の作品で、充分な見ごたえがある。
この作品はTVムービーであるだけにもちろん低予算で撮られているわけだが、まだそれほど有名でなかったコッポラがだか、TVムービー専門の監督であるジョン・コーティがだかわからないが、工夫を凝らして撮ってある。
その工夫というのは、いかにこの村人の“奇妙さ”を描きこむかということだ。彼らがいかに奇妙であるかを説明するのではなく、メロディの視線に一体化した観客が、その映像だけから、彼らの奇妙さを感じ取れるような演出をすること、それがこの映画がもっとも力を注いだ部分なのだろう。そのためにしたのは、彼らに足を引きずらせること。日本でいうところのすり足で彼らを歩かせる。それはいかにも奇妙な所作であり、それを村人全員にさせることで、そこに何らかの理由があること、村人に共通する秘密があることを感じ取らせる。そして、さらに彼らをほとんどしゃべらせず、ほぼずっとうつむき加減にさせておく。それは、彼らとのコミュニケーションがほとんど不可能であるということを意味する。言葉を発しなければ会話によるコミュニケーションをとることも出来ないし、目を合わせることが出来なければ、視線や表情によって何らかの感情を伝えることも出来ない。
このようにして彼らが抱える秘密と、彼らとのコミュニケーションの不可能性を序盤で明らかにすることで、彼らはたやすく他者として存在することになる。これがこの映画の狙いであり、この作品はその狙いを見事に最小限の表現で実現しているのだ。
そこから先は比較的当たり前の展開である。メロディが彼らの中からもっともとっつき安そうなひとり(フランチャーという少年)に取っ掛かりをつけて、彼との関係をほぐして行くことから、彼らの秘密を探り、彼らの“奇妙さ”の理由を探って行く。
これは確かに当たり前の展開で、展開に面白みはないが、その奇妙な村人たちの秘密が魅力的であるだけに、退屈にはならない。そしてその秘密が遂に明らかになる子供たちの絵のシーンはかなり印象的で、インパクトがある。
これは、そのシーンが決定的な他者理解の瞬間であり、しかもそれが絵というビジュアルを通してもたらされるからではないか。他者を理解するというのは非常な困難を伴い、不可能であることも多い。だからこそ今なお地球上には紛争が絶えず、テロや宗教対立が生まれるわけだが、この作品はその他者との交流が実現する瞬間を見事に描いているのだ。
もちろんそれが実現するのは、主人公のメロディという人物の人間性や、対立する他者である村人たちの寛容さにも起因するわけで、理想主義的であるとは思うが、このような形で他者理解が実現すれば、こんなに素晴らしい事はない。
なんて事はないTV映画だが、まだ若かりし頃のコッポラの意欲と、70年代のカルチャーがこのような理想主義的でしかし面白作品を生んだのだと思うと、なんだかうれしくなる。コッポラが『ゴッドファーザー』を世に出すのはこの作品の翌年のことである。