駅馬車
2005/10/26
Stagecoach
1939年,アメリカ,99分
- 監督
- ジョン・フォード
- 原作
- アーネスト・ヘイコックス
- 脚本
- ダドリー・ニコルズ
- 撮影
- バート・グレノン
- レイ・ビンガー
- 音楽
- ボリス・モロス
- リチャード・ヘイグマン
- W・フランク・ハーリング
- ジョン・レイポルド
- レオ・シューケン
- ルイス・グルーエンバーグ
- 出演
- ジョン・ウェイン
- トーマス・ミッチェル
- クレア・トレヴァー
- ルイーズ・プラット
- ジョン・キャラダイン
- ドナルド・ミーク
- ジョージ・バンクロフト
とある町に着いた駅馬車には、夫に会うためにローズバーグに向かう夫人や酒商人らが乗っていた。それに、お尋ね者のリンゴ・キッドが脱獄したという知らせを聞いた保安官、町を追放される酔いどれ医師、商売女のダラスが加わる。御者はアパッチ族のジェロニモが迫っている情報を聞きしり込みするが、駅馬車は騎兵隊の護衛を得て出発、途中でさらに銀行の金を横領したゲートウッドを拾う…
ジョン・ウェインが一躍スターダムへとのし上がったジョン・フォードの傑作西部劇。先住民に対する差別など当時の西部劇共通の問題点はあるが、活劇としての面白さは色褪せない。
西部劇というとやはり単純な物語という印象がある。確かにこの作品も、ただ単にローズバーグというところに行くというだけの話しであり、物語の構造は非常に単純だ。しかし、その物語を運ぶ駅馬車という限られた空間に様々なキャラクターがいて、その間に様々な小さな物語が生起する。
基本的にはジョン・ウェイン演じるリンゴ・キッドが主役ということになるのだが、別にこのリンゴ・キッドを中心に物語が展開して行くわけではない。この駅馬車の旅路の中ではその登場人物のそれぞれが時に主役になり、時に脇役になって様々な物語を提供して行く。それがこの映画の最大の面白みだ。
夫に会うためにヴァージニアからやってきた夫人は何故よそよそしく、具合が悪そうなのか。そして、その夫人にしつこいほどに、しかし慇懃に付きまとう賭博師はいったい何者で、夫人とはどのような関係なのか。ゲートウッドの犯罪にみながいつ気づくのか。などなど、それぞれの物語が相互に関係し合い、また新たな展開を呼んで行く。
これはまさに、映画が映画としての面白さを生み出す魔法のような展開の仕方である。映画は閉じられた空間と移動するということに相性がいい。閉じられた空間では複雑な人間関係が生まれ、映像はその関係を言葉だけではない仕草や目配せや表情で表現することが出来る。主人公たちが移動するとき、映画は自然と新たな場所にたどり着き、新たな人間関係や風景を生み、物語にも予想外の展開を用意することが出来る。この駅馬車はまさに、移動する閉じられて空間として例えば『オリエント急行殺人事件』の列車にも通じる理想的な舞台装置として機能するのだ。
だからこの映画はいつまでたっても色褪せない。このような映画は何度も何度も作られ、それらは同じような内容ではあるのだが、人間関係の複雑を基にした展開には無数のバリエーションがあるからまったく同じものはふたつとない(もちろん、まったく同じものを作ろうとしない限りはだが)。だから、この映画と同じような映画がいくつ作られようと、この映画の面白さは損なわれはしないわけだ。
そしてもちろん、今や伝説ともなったアパッチの襲撃シーンの素晴らしさもある。今ではCGやワイヤーの助けもあって、様々なアクション映画でもっと迫力のあるシーンが実現されている事は確かだが、この疾走する馬車と馬との間で行われる戦闘のスピード感はさすがにすごい。その前の馬車の走るシーンなどは合成見え見えではあるが、このシーンはリアルで肉体の生々しさがある。インディアンが撃たれてバンバン倒れるのもちょっとやりすぎという感はあるが、それもまたスピード感の演出のひとつである。
インディアンといえば、この頃の西部劇については先住民に対する差別という指摘があり、その指摘はもちろん当たっている。だから、例えばこの作品を名画とするというのはおかしいという主張もあるわけだが、しかしこの作品が差別的な表現であるという評価が定着すれば、ここに登場するインディアンたちが実際の先住民たちとは無関係なカリカチュアされたイメージである事は明らかになり、この作品も復権されうるはずだ。もちろん、本当の占領者と先住民との関係を描いた映画が作られることが必要だが、差別的な表現が含まれているということだけで作品としての評価が云々されるのは納得いかない。これが差別的な表現であるということを当時の制作者たちは知らなかったのであり、それを知るべきだというのは傲慢というものだ。むしろ、彼らがこれが差別的であったということを知らなかったということを真摯に受け止めて、われわれもまた後世から見れば差別的であったり、問題があったりすることを当然と考えているかもしれないということを考えるべきではないか。
作品を活劇として純粋に楽しんで、同時にこれが差別的であるという言説を受け入れることで映画にまつわる様々なことを考えれば、この作品の持つ意義はよりいっそう高まるのではないかと思う。