パリ、18区、夜。
2005/10/31
J'ai pas Sommeil
1994年,フランス,109分
- 監督
- クレール・ドニ
- 脚本
- クレール・ドニ
- 撮影
- アニエス・ゴダール
- 音楽
- ジャン=ルイ・ムラ
- ジョン・パティソン
- 出演
- カテリーナ・ゴルベワ
- リシャール・クルセ
- ヴァンサン・デュポン
- ベアトリス・ダル
リトアニアから車でパリへとやってきたダイガは叔母を訪ねる。叔母は家が狭いことを理由にホテルを経営している友人にダイガのことを頼み、ダイガは何とかそのホテルの物置になっていた部屋に転がり込む。そのホテルにはマルティニークから来た移民でゲイのダンサーであるカミーユが恋人と暮らしていた。その頃パリでは、老女を狙った連続強盗殺人が起きていた…
社会派の女流監督クレール・ドニがパリに暮らす移民たちを描いた暗いフランス映画。
この映画が作られたのは今から10年ほど前だが、その頃実際にアフリカ人の少年が老女連続殺人事件を起こし、移民が社会問題になる。映画の冒頭でカフェの主人がパリは外国人ばかりだというようにパリには続々移民が流入していた。それはもちろん貧しい国の人々が豊かな土地へと移住するという当たり前の現象であり、地続きのヨーロッパ各国(特に旧共産圏)やカリブ海やアフリカの旧植民地(言語面で共通点がある)から多くの人々がパリにやってきた。
この作品は、その移民の問題を正面から扱っている。移民としてやってきた外国人が犯罪を起こすという構造、その構造の背後にある状況を描いていこうとする。主人公の一人タイガは女優になる夢を持ってパリにやってくる。しかし、女優の仕事などが見付かるわけもなく、知り合いのホテルにおいてもらい、下働きをしてしのぐ。そこには旧ソ連の人々のコミュニティが一応あり、協力関係も見えるが、誰もが自分自身の生活で精一杯で他人を助けるまではなかなか出来ない。
もう一人の主人公カミーユはおそらくマルティニーク人だが、おそらく彼自身(兄のテオも)はフランスで生まれたのだろう。それがわかるのはテオがマルティニークに帰ることを主張するときに語るマルティニークのイメージである。彼のイメージではマルティニークは楽園であり、ある意味では原始的な社会である。それが故郷に対するノスタルジーから来る美化であることは間違いない。彼の親やあるいは祖父母がマルティニークからフランスへとやってきたのは、そこの厳しい生活から逃れるためだったはずだ。したがって、マルティニークが彼のいうような楽園であるとは思えない。楽園であるなら、彼らはマルティニークにとどまっていたはずなのだから。
彼らがそのように考えるのは、そうとでも考えなければ逃げ場がないからだ。彼だって実際にはマルティニークが楽園などではないことはわかっているのだ。それでもパリの今の生活の厳しさから抜け出したいという欲求のはけ口としてその楽園が必要だったのだ。
一方のタイガにも希望がない。戻るべき楽園もなく、フランスでの生活の展望もない。彼女は八方塞の状況にただただ鬱憤を募らせるばかりで何も出来ない。しかし、それこそがパリにやってきた外国人のほとんどが経験する状況なのだろう。肉体労働を中心とした低賃金労働に従事し、何とか生きて行く。それでも祖国にいるよりはいい生活が送れる。それだけのためにパリにい続ける。その彼らを単純に排斥することに果たして意味があるのか。
この作品を観て本当に暗い気分になった。彼らには果たして希望があるのか。そう思わせるのは、この映画にリアリティがあるということなのだろうが、それでもやはりどこかに希望の芽を見せて欲しかった。とくに、この作品では彼らを受け入れるフランス人がほとんど描かれていない。移民たちが希望をもてるかどうかはフランス人との関係性にかかっているはずなのだが…