イン・ザ・カット
2005/11/2
In The Cut
2003年,アメリカ,119分
- 監督
- ジェーン・カンピオン
- 原作
- スザンナ・ムーア
- 脚本
- スザンナ・ムーア
- ジェーン・カンピオン
- 撮影
- ディオン・ビーブ
- 音楽
- ヒルマン・オルン・ヒルマルソン
- 出演
- メグ・ライアン
- マーク・ラファロ
- ジェニファー・ジェイソン・リー
- ケヴィン・ベーコン
- ニック・ダミチ
- シャーリーフ・バグ
ニューヨークの大学で国語の教師をするフラニーは様々な言葉や詩を書き留める。スラングについてもいろいろと集めており、生徒の一人コーネリアスからスラングを教わったりもしている。今日もコーネリアスと昼間にバーで会い、そのトイレで目撃した出来事から、殺人事件を捜査する刑事マロイに協力を求められるが…
ラブコメの女王メグ・ライアンが新たな境地を開くために挑戦したシリアス・サスペンス・ドラマ。監督は『ピアノ・レッスン』のジェーン・カンピオンで、ニコール・キッドマンが製作に参加している。
メグ・ライアンのラブコメからの脱却と、ヌード、それがこの作品の話題だった。しかしやはり、メグ・ライアンとこういったシリアスな映画はどうもあわない。もちろんそれは今までに植えつけられたイメージとのギャップが埋められないからということなのだが、そのようなイメージは映画を見るほとんどの人の頭の中に埋め込まれているのだから、いきなりこんな正反対というか、まったくらしくない役をやるというのは失敗だったのではないか。もう少し多彩な役柄を演じる中でこのような徹底的にシリアスで悲惨な役というのを演じるという段階があった方がよかったのではないかと思う。この作品に出演したことで彼女が得たのは“ラブコメの女王”というレッテルから脱却しようとしているという彼女の意思があまねく伝わったというだけのことのような気がする。この作品の次には『ファイティング×ガール』というボクサーの女性マネージャーとして活躍した女性の伝記映画に主演(日本では劇場未公開)しているから、その決意は本物であるらしい。彼女が本当に“ラブコメの女王”というレッテルから脱却し、本格女優として活躍するようになっても、この作品が再評価されるということはありそうにないが、それでも彼女にとっては自分を後戻りできないところに追い込んだ作品として意味があるのかもしれない。彼女がいつか何度も共演したトム・ハンクスのようにアカデミー賞の常連になるといいんだけれど…
この作品はそんなメグ・ライアンの映画以外のなにものでもない。しかし、もちろんそれとは別に作品としての製作意図があり、監督も彼女なりに何かを主張しているわけだが、それはほとんど伝わってこないと言っていい。唯一、伝わってくるのは、この映画のもつフェミニズム性だ。明確な女性映画というわけではないが、この作品はメグ・ライアンの“ラブコメの女王”からの解放という意図と呼応するように「女性の解放」をテーマにしているように思える。“ラブコメの女王”というレッテルは彼女を「ニューヨークの恋人」として、その女性性の中に閉じ込めるものである。男性と女性という関係の中での女性像として常に描かれ、そこで彼女は何かを収奪され続けていたはずだ。もちろん彼女のギャラは相手の俳優よりも何倍も高いけれど、役柄の上ではやはりどこかで男性よりも下に位置づけられていることが多い。ラブコメのような映画に描かれる典型的な男女関係は、男性優位の男女の関係を保存し、女性から自由を奪うという点がある事は否定できない。
メグ・ライアンがそのためにラブコメをやめようと思ったとは思えないが、そそのメグ・ライアンの解放と女性の解放がこの作品では結び付けられているように思える。この作品のテーマといえるものはただひとつ、女性の性の解放である。女性の性を男性に支配されるものから自分で支配できるものにすること、それがこの作品の眼目である。それがもたらされるのはもちろんマロイとの出会いからである。そして、そのマロイと初めて寝るとき彼女はコンドームを差し出す。これは女性が自分の性を自分で握っていることを示す象徴的な行為だといえる。受身で男性の行動に身を任せるのではなく主体的にどうするのかを選択すること、その性の解放から女性の解放が始まるというのはフェミニズムの考え方としては古典的なものだと思う。
この映画はそれをメグ・ライアンという偶像であったものを利用して実現しようとしている。“ニューヨークの恋人”であり、男性に望むものを提供してくれるものであったメグ・ライアンがその偶像性を破壊して、自らを解放する。それを象徴的に描くことで、「女性の解放」という概念を提示する。
そして、それは手錠でつないだマロイの上にフラニーがまたがるとき、完全になるように思えるのだが、ラストを見ると、ことはそれほど単純ではないということが示唆されているようにも思える。女性が解放されるということが実質的に実現されるには、単に男女が台頭になったり、男女の関係が逆転するだけではダメなのだ。違いを見つめ、その違いを埋め合わせるように対等の関係を結ぶこと。それがいかに難しいかをこの作品は最後に語っているのだろうか。