ヒズ・ガール・フライデー
2005/11/20
His Girl Friday
1940年,アメリカ,92分
- 監督
- ハワード・ホークス
- 原作
- チャールズ・マッカーサー
- ベン・ヘクト
- 脚本
- チャールズ・レデラー
- 撮影
- ジョセフ・ウォーカー
- 音楽
- モリス・W・ストロフ
- 出演
- ケイリー・グラント
- ロザリンド・ラッセル
- ラルフ・ベラミー
- ジーン・ロックハート
- ヘレン・マック
- クラレンス・コルブ
元新聞記者のヒルディは元夫で務めていた新聞社モーニング・ポスト紙の編集長であるウォルターに会いに行く。その目的は仕事をやめて再婚をするということの報告だったが、ウォルターはヒルダを記者としても妻としてもあきらめきれず、あの手この手でそれを阻止しようと画策する。
ハワード・ホークスがブロードウェイのヒットミュージカル『フロント・ページ』を映画化。この作品はこれまでに4度映画化されており、これは2回目の映画化。3回目の映画化に当たるビリー・ワイルダー監督の『フロント・ページ』と並び名作の評判が高い。
これこそまさにスクリューボール・コメディというにふさわしい作品だと思う。スクリューボール・コメディとはつまりものすごいスピードで、あれやこれやと騒動を起こして、それがコメディに結びつくというもので、多くの場合はすれ違いを繰り返す男女が最後には結ばれるという展開の物語が多い。この作品はまさにそれ。新聞記者といういかにもモーレツに忙しい職業の設定はスクリューボール・コメディの設定にぴったりで、離婚した記者同士というのはまったく持ってそのためにあるようなコンビである。そして、この作品は事件の展開のめまぐるしさもさることながら、ふたりのマシンガン・トークというべきしゃべりのスピードのものすごさが非常に印象的である。どちらも他人に言葉をはさませないスピードでしゃべり、それによって相手の言いたいことを封じ込めるそのやり方それ自体が笑いを誘い、また同時に展開をどんどんと先へ進めて行きもする。そして、最後にはふたりが同時に電話に向かってマシンガントークを繰り広げ、それはまるで言葉の洪水、流れ出る言葉に窒息させられそうになる。
このスクリューボール・コメディがアメリカで流行したのは1930年代から40年代の前半といわれる。それが第二次世界大戦の時期に重なる事はすぐわかるが、果たして戦争とスクリューボール・コメディに関係があったのかはよくわからない。しかし、この時代がアメリカにとって急激な近代化の時代であり、同時に映画の黄金時代(の終盤期)であることは確かである。黄金期というのは数多くの映画が量産される時期でもあり、そのことが映画にスピード感を与える遠因になったとも考えられる。
この近代化/モダニズムや黄金時代というのが、このスクリューボール・コメディのようなスピード感に溢れる作品を生み出すというのは、アメリカだけではなく日本にも当てはまるのではないか、と私は思った。この作品を観ながらまず思い出したのは、増村保造が1958年に撮った『巨人と玩具』である。この日本のモダニズムの典型のような作品でも、川口浩と野添ひとみ演じるふたりの主人公はマシンガン・トークを繰り広げ、見るものを圧倒して、まるで日本版スクリューボール・コメディのような様相を呈する。
この時期は日本の急激な近代化の時期であり、同時に日本映画の黄金時代でもあった。まさに大衆文化の王様であった映画の勢いが、スクリューボール・コメディという形で作品にも反映される。そんな共通点がアメリカの30年代と日本の昭和30年代にはあるような気がした。
おまけで言えば、『巨人と玩具』が作られた58年といえば、フランスではヌーベル・バーグが勃興し、その活動の中心たる「カイエ・デュ・シネマ」ではハワード・ホークスが映画作家として再発見されていた。この『ヒズ・ガール・フライデー』もその過程で単なるスクリューボール・コメディの一作品という地位から映画作家はワード・ホークスの代表作のひとつとして映画史の1ページに刻まれることとなった。増村保造は直接ヌーベル・バーグとつながりがあったわけではないが、アメリカよりもヨーロッパに強く影響を受けた映画作家であり、そこにその時代が、映画が各国内だけではなく、世界的なつながりを持つメディアになって行く時期であったということを感じさせるものでもある。
が、今日の本題はこの『ヒズ・ガール・フライデー』である。今書いたようにこのスクリューボール・コメディの勢いは観客を圧倒する。圧倒された観客はヒルディの再婚相手のブルースのようにわけのわからないまま翻弄され、巻き込まれ、映画に引き込まれて行ってしまう。よく考えると辻褄が合わなかったり、めちゃくちゃだったりするようなところも多いのに、なんとなくそれでいいような気になってしまうのだ。
見終わって考えてみると、まったくひどい話しだし、こんな結末でいいのかと思うけれど、同時に映画は必ずしも物語や結末が全てではなく、映画を見ている90分という時間を楽しく過ごせるかどうかも重要なんだということをつくづく考えさせてくれる映画でもあるということだ。見終わって納得が行かない気持ちで映画が終わると、なんだかいまいちの映画だったような気分にもなるが、それまでの90分は文字通りわれを忘れて映画の世界に入り込んでしまっていたのだ。そのようにして観客を映画に引き込むことこそがハワード・ホークスの真骨頂であり、そういう点から言えば、この作品はまさしくハワード・ホークスらしい作品なのだ。