2046
2005/12/1
2046
2004年,香港,130分
- 監督
- ウォン・カーウァイ
- 脚本
- ウォン・カーウァイ
- 撮影
- クリストファー・ドイル
- 出演
- トニー・レオン
- 木村拓哉
- コン・リー
- フェイ・ウォン
- チャン・ツィイー
- カリーナ・ラウ
- マギー・チャン
1966年、シンガポールから香港に戻った元新聞記者のチャウは物書きをしながら、女たちと遊ぶという生活を続けていた。ある日、シンガポールで知り合いだった女に再開し、酔いつぶれた彼女を送ってホテルに。その部屋番号2046を見た彼は何かを思い出し、「2046」という小説を書き始める…
ウォン・カーウァイがトニー・レオン、チャン・ツィイーらアジアのトップスターを集めて描いたラブ・ストーリー。カーウァイ監督の初期作品の淡い感じと、最近の作品の官能的な雰囲気の両方を併せ持つ。
日本ではキムタクというのがまず先に出てきてしまって、それだけでまず観客を遠ざける(わたしもそれで遠ざかったひとりだが)。しかし、見てみると、キムタクの登場シーンはかなり少なく、セリフもほとんどない(広東語を話せないので当然といえば当然だが))ので、キムタク目当てに見に来た観客を裏切る。このため、作品の評判が否応なくひどいものとなる。
しかし、実際に見てみると、これが意外にいい作品だ。確かにキムタクはキムタクで、映画にまったく馴染んでいないが、彼が本来の役である日本のビジネスマンとして登場するシーンでは、彼はそもそも香港という社会に入り込んだ異邦人なのだから映画から浮いたような存在感であっても別にかまわないのだ。どうして言葉も通じないのにフェイ・ウォン演じる管理人の娘と恋に落ちることができるのか、そして長文の手紙のやり取りができるのかという謎は残るが、それはまあいい。そして、小説「2046」の主人公として登場するキムタクもセリフがほとんどないこともあり、小説の世界がSF的であるということもあってそれほど違和感がない。トニー・レオン演じる物書きが自己を投影して作り上げた主人公なだけに、口の上にうっすらとひげがあるのもご愛嬌という感じである。
だから、実際にはキムタクがキムタクであるということをあまり意識せずに映画を見ることが出来る。トニー・レオン演じる主人公と女たちの物語、それがこの映画の全てなわけで、その物語の中でキムタクはほんの脇役に過ぎないのだ。
さて、わたしがウォン・カーウァイの映画を観ていつも思うのは、この監督はキザではあるが観客の意表をつくセリフを使うのがうまいということだ。この状況でこんなことをいうのかという驚きを呼ぶようなセリフを吐かせながら、実際にそのシーンでは、まさにそのセリフがピタリとはまっているのだ。この言葉の魔術にウォン・カーウァイの映画の真骨頂がある。
初期の作品では、例えば『恋する惑星』で金城武が毎日パイナップルの缶詰を食べ続けるというエピソードがあるなどセリフよりもエピソードと映像の意外性によって観客を驚かし、引き込んできた。これが最近の作品になると、セリフに重点が置かれるようになってきたのだと思う。そして、その変化は内容がさわやかな若者の恋愛というものから大人の官能的な恋愛へと変化してきたことにも呼応している。
この作品でもとくにトニー・レオンとチャン・ツィイーのエピソードでは、意表をつくセリフが次々と登場し、これこそカーウァイの映画だという感じを味わうことが出来る。このエピソードの10ドル札の役割などは、エピソード的な意外性という要素も含んでいて、面白い。チャン・ツィイーが演じる役は、最近のカーウァイの作品よりは初期の作品の住人という感じがして、どこかで初期作品とのつながりを感じさせる。
そして初期作品とのつながりということで言えば、この作品が『欲望の翼』にどこかでつながっている事は間違いない。『欲望の翼』は1990年の作品で、よっぽどのウォン・カーウァイ好きではないときっちり内容まで覚えてはいないと思うのだが、確かレスリー・チャン演じる主人公がこの『2046』のトニー・レオン演じる主人公に似てプレイボーイだったという程度は覚えている。 ウォン・カーウァイの世界観を演出するのに欠かせない俳優であったレスリー・チャンとトニー・レオン。そのひとりレスリー・チャンがなくなってから撮られたこの作品は、彼へのオマージュという意味も込められているのかも知れない。
そのような意味でも、この作品はウォン・カーウァイにとってのひとつの区切りという気もする。これまでの作品を総括し、次のステップに進む。そのような作品にわたしには見えた。SF的なエピソードなどははっきり言ってどうでもいいです。これはあくまでレスリー・チャン演じる主人公の内的世界なわけで、物語の補足と映像的なアクセントとして機能しているだけのもの。この作品はまったくSFではありません。
音楽の使い方は相変わらず素晴らしい。音楽と映像があればたいした物語はいらない。これもまたウォン・カーウァイの作品を観ていつも思うことだ。