血槍富士
2005/12/7
1955年,日本,94分
- 監督
- 内田吐夢
- 原作
- 井上金太郎
- 脚本
- 三村伸太郎
- 脚色
- 八尋不二
- 民門敏雄
- 撮影
- 吉田貞次
- 音楽
- 小杉太一郎
- 出演
- 片岡千恵蔵
- 加東大介
- 島田照夫(片岡栄二郎)
- 喜多川千鶴
- 月形龍之介
- 進藤英太郎
東海道を江戸へ向かう若旦那酒匂小十郎と槍持ちの権八、供の源太の一行。風の六右衛門なる大泥棒が出るという道中で、足にまめが出来て一人休んだ権八はおかしな小僧次郎と出会う。さらに宿場でも旅は道連れとばかりにいろいろな人と出会うが…
内田吐夢が13年の空白を経て撮った戦後復帰第一作、スタッフから役者まで内田吐夢を応援すべく東映総動員体制で作られた大作で、片岡千恵蔵が槍持ちという地味な役回りで主演を務めた。
映画はとぼけた感じで始まる。東海道中膝栗毛ではないけれど、主人公のどこかの旦那とふたりのお供の一行が「旅は道連れ世は情け」とばかりに様々な人に出会うのだ。考えてみれば、当時は徒歩の旅、歩ける距離なんてたかが知れているから、同じ方向に旅するなら何日も同じ旅程で同じ宿場に投宿するなんてこともよくあったろう。そんな中で顔見知りになったりする、当時のそんな旅の風景が手に取るようにわかる。
そんなとぼけた展開の中に一石を投じるのが大泥棒らしい風の六右衛門なる輩の存在で、この中の誰がいったいその六右衛門なのかということで観客の注意をひきつけ、そこで登場人物たちを同定していく。こそこそと大金を運んでいるらしい藤三郎、事情があるらしい父娘、あんま、巡礼、などなど。権八が出会う孤児の小僧(次郎)と芸人の母娘は重要人物として仲間に加えられる。 そんなこんなで泥棒を捕まえて、映画の前半が終わる。ここまではなんとものんきな旅烏もの、どこからみても喜劇でしかないのだが、ここまでは実は終盤に向けての布石、権八と芸人の母おすみがどことなく想いを通じ合い、権八になついた小僧と芸人の娘おさんが兄妹のように仲良くなっている(演じるふたりが実際に兄妹だから兄妹っぽく見えるのも不思議はないわけだ)。
他方で思いつめた父娘がと藤三郎が物語の前面に登場しそうな雰囲気を見せる。そして前半の最後、大泥棒を捕まえた褒美が書状しかないことに小十郎が不満を見せ、であった人たちが宿屋から出て行くのを見ながら、「あの人たちはいいなぁ」というのだ。
この一言で、映画のテーマががらりと変わる。のんきな膝栗毛だったものが、小十郎の武士階級というモノへの不信、武士などというモノは世の中に無用なのではないかというという疑問が頭をもたげるのだ。小十郎は下郎(人に使われる身分の低いもの)である権八や源太をさげすむこともなく、誠実に接する。 ここには内田吐夢の戦後第1作という意気込みが現れているのではないかと思う。戦争後中国に残り辛酸をなめてきた彼に民主化された日本はどのように写っただろうか。そして平和主義は。この映画が武士というモノをどうも否定しようとしているのを見ながらそんなことを思ってしまう。内田吐夢は武士の無用さを描くことで、日本が戦争を放棄したことを祝福しているのではないか。そのように思えてくるのだ。
そして映画は武士という階級の象徴的な死で終わる。次郎が持っている「武士へのあこがれ」という価値観の転覆するという悲劇的な結末である。しかし、これから世の中が武士が無用であるような社会に変化していくのだとしたら、次郎の価値観は転覆されたほうがいいのだ。それは戦後に日本人がその価値観を転覆させたほうがいいのと同じようにである。そして、武士の死はそれが象徴する戦争というものの否定なのではないかと思う。
もちろん、そのようなメッセージをおいておいても、この映画は充分に面白い。特に最後の大立ち回りはさすがは片岡千恵蔵という感じの見物である。映画の設定としては片岡千恵蔵は槍持ちという脇役的な位置に置かれ、物語の上でも絶対的な主役=スターという設定のされ方ではない。もちろん、主役ではあるけれど、彼を中心に映画が回っているわけではないのである。そして、最後の立ち回りも、小十郎と源太だけがその現場にいるシーンから始まる。そして、まず小十郎が奮闘し、その知らせが権八に届くが、権八は間に合わないのだ。所詮槍持ちの権八が駆けつけても何の役にも立たないわけだが、それでも彼は駆けつける。このあたりには時代劇のロマンが感じられて面白い。
そして最後の最後に片岡千恵蔵は本当の主役となって、大立ち回りを演じる。この時の鬼気迫る演技にはさすがにうならせられる。単純な主従関係によるものではない、人間対人間の信頼関係がなければそこまで怒りを爆発させることは出来ない、ということが見事に表現されているのだ。このシーンを見れば、すべての説明は不要になる。時代劇としての面白さも、エンターテインメントとしての面白さも、内田吐夢が表現したかったメッセージも、すべてがこの瞬間に込められている。