キリング・フィールド
2005/12/8
The Killing Fields
1984年,イギリス,141分
- 監督
- ローランド・ジョフィ
- 原作
- シドニー・シャンバーグ
- 脚本
- ブルース・ロビンソン
- 撮影
- クリス・メンデス
- 音楽
- マイク・オールドフィールド
- 出演
- サム・ウォーターストン
- ハイン・S・ニョール
- ジョン・マルコヴィッチ
- ジュリアン・サンズ
- スポルティング・グレイ
1973年、カンボジアへ赴いたニューヨークタイムズの記者シドニーは米軍がカンボジアを爆撃したと聞き、通訳兼ガイドのプランとともにひそかに現地に向かう。現地で取材をしていたシドニーとプランは政府軍に拘束されてしまうが、数日たったある日、ヘリで取材陣が押し寄せてくる。
ピューリッツァ賞を受賞したシドニー・シャンバーグのノンフィクションを映画化した作品。ハイン・S・ニョールがアカデミー助演男優賞を受賞した。
アメリカは今も昔も変わらず、アジアの人々を人とも思わず、自国の利益のために戦争を始め、戦争をやめる。映画の前半はほぼそのようなメッセージを伝えるだけのためにあると言っていい。アメリカからカンボジアへ行き、現地で起こったことをその場で見て、アメリカがやることに疑問を覚える新聞記者、それはアメリカ人全てが悪いわけではないといういい逃れのようにも見えるが、実際にアメリカ人の全てが悪いわけではないのだろう。特にジャーナリストの中には彼のようにアメリカの問題点を指摘し、人々に訴えようとする人もいる。それもまた今も変わらないアメリカの姿である。
しかし、20年も前にこのような映画が作られているのに、何故アメリカは変わらないのか。この映画はイギリス映画だが、この映画からアメリカはいったい何を読み取ったのか。アカデミー賞を獲ったくらいだから、アメリカでもそれなりに見られている映画だろうに、アメリカがやっていることはこの映画の中と何も変わってはいない。
だから、この映画は強いメッセージをもつにもかかわらず、どこか虚しい。空虚な叫び、もちろんくり返しこのようなことを叫ぶことには意味があると思うが、その意味が感じられないほど小さいとするならば、叫び続けること自体がつらくなってきてしまう。この映画を今見るときに、感じてしまうのは、そのような努力のむなしさである。
後半は一転、クメール・ルージュの残虐さを表すプランのエピソードになる。この理不尽で残虐な集団に対する怒りは誰しもが感じるだろう。この映画はもちろんフィクションだが、事実に基づいており、このような残虐性が一種の記録として残されるということには意味がある。それはナチスの映画や旧日本軍の映画に意味があるのと同じことだ。
そして、この後半を見ながら、私は彼らをこのようなものに駆り立てるのが「絶対的なもの」であるのだと感じた。ひとつの絶対的な価値観を人が信じるとき、そこには狂気が表れる。その絶対者の名の下に全てが許され、全てが許されることで自分が絶対者であると誤認し、利己的な行動を正当化して行く。カンボジアは本来敬虔な仏教徒の国である。それは、前半でプランがお坊さんとすれ違ったり、仏像の前を通り過ぎるとき、必ず手を合わせることによって明らかにされている。
しかし、クメール・ルージュは共産主義の名を借りた絶対主義であり、ひとつの絶対的な価値観を信奉する集団である。神々を捨て、唯一の価値観を信奉するようになった彼らは利己的になり、傍若無人に振舞うようになるのだ。
それはもちろん、イスラム教原理主義にも通じることだ。そして、全てを神の名の下に行うアメリカにも。つまり、この映画の中で起きている戦争も、今世界で起きている戦争も、絶対的な価値観同士の衝突から起きたことである。アメリカはもちろん神の名のもとにといいながら、それを動かしている原動力は資本主義だが、神と結びついた資本主義というもアメリカ(の権力者)が信奉する絶対的な真理なのである。
だから、この映画はどうにも絶望的だ。仏教徒であり、多様な価値観を認めるプランは生き延びるが、それは決して彼の勝利ではない。いつまた彼のような人々が価値観の対立の犠牲になって命を落とすかはわからない。状況はまったく改善されていない。それは今もまったく同じなのだ。
私には、どうして人がひとつの絶対的な価値観などというものを信じられるのかわからない。他者に想像力を働かせ、多様な価値観を理解しようとしなければ、何も見えてこない。だから、そのような絶対的な価値観を信じる人々のことを想像してみるのだが、それはどうにも難しいことのように思える。