メゾン・ド・ヒミコ
2005/12/15
2005年,日本,131分
- 監督
- 犬童一心
- 脚本
- 渡辺あや
- 撮影
- 蔦井孝洋
- 音楽
- 細野晴臣
- 出演
- オダギリジョー
- 柴崎コウ
- 田中泯
- 西島秀敏
- 歌澤寅右衛門
- 青山吉良
- 井上博一
- 柳澤愼一
- 村上大樹
- 村石千春
1980年代、銀座の伝説的なゲイバー“ヒミコ”のママであったヒミコはバーをたたんでゲイのための老人ホーム“メゾン・ド・ヒミコ”を作った。一方、塗装会社に勤める沙織はお金に困り、風俗店でバイトしようかと考えていた。そんな彼女のところにたびたび電話をしてくる男・岸本はヒミコの恋人で、沙織は実はヒミコの娘だった。
ゲイのための老人ホームを舞台に、親子の関係、ゲイと他の人々の関係をじっくりと描いたドラマ。柴崎コウも素晴らしいが、『たそがれ清兵衛』で映画初出演を果たした舞踏家田中泯の存在感がすごい。
この映画は噛み締めれば噛み締めるほどじんわりと味わいが出てくる映画ではないか。“ゲイのための老人ホーム”という題材は、家族などもなく孤独に死んでいかざるを得ないゲイたちが、その寂しさを紛らわせ助け合うための環境という印象を与え、それは彼らが偏見の中を生きてきて、その中で死んで行かなければならないということもイメージさせるものである。
しかし、この物語はそのような単純な物語ではない。“ゲイ”というレッテルによってくくられる人々の物語ではなく、ゲイとして生きてきた個人個人の物語の集合であるのだ。そしてその人々と沙織という不思議に魅力的な人物の関係から、ゲイとゲイではない人々という二項対立的な単純な構造など最初から存在していないということを明らかにするのだ。
“ゲイ”というレッテルはゲイではない人々がつけるものであると同時に、ゲイである人々自身がつけるものでもある。ゲイであり偏見をもたれているということを認識することで得られる安心、その中でぬくぬくと生き、開き直ることで楽になる。しかし人生はそれほど単純ではない。人間と人間の関係はもっと複雑で豊かなのだ。
この映画は複雑で豊かで素晴らしい人間というモノを、沙織という不思議に魅力的なキャラクターを軸に描いて行く。
柴崎コウ演じる沙織の果てしのない正直さ。気兼ねというものは一切なく、ストレートにものをいう潔さ、それが人々の偏見の中で婉曲的にものを言い、いわれることになれてきたゲイの年寄りたちの心を突き刺す。彼らは互いのキズを舐めあい、穏やかに老後を過ごそうとしているが、彼らはもちろん醜い。それを意識しないで住むように彼らは“メゾン・ド・ヒミコ”という隠れ家に閉じこもっているのだ。沙織はその隠れ家に入り込み、彼らにその事実を突きつける。しかし、それは実は避けがたいことだったのだ。それは、沙織とは彼女がいうとおりゲイたちがエゴイスティックに生きていたことの負の遺産なのだから。
彼女はヒミコが捨てた娘、ヒミコがゲイとして好きな生き方をするために苦しい運命を背負わざるを得なかった被害者であることは間違いない。そして、表面化してこないが、同じような被害者をヒミコ以外のゲイたちも生み出しているに違いないのだ。もちろん、そのような人生の負の遺産はゲイに限ったことではない。ゲイではない人々もそのような負の遺産を無視して生きてきたに違いなく、この映画でゲイについて表れる事実は、ゲイではない人々についても当てはまることではある。
まあ、それはともかく、彼らは沙織のような被害者を生み出してきた。しかし、もちろん同時に彼らは被害者でもあった。彼らは人々の偏見によって苦しい生き方を強いられてきたのだから。その代表ともいえるのが青山吉良演じる山崎である。彼は自分が本当に生きたい人生を部屋の中に隠し持ち、我慢して生き続けてきた。そんな彼が沙織と出会うことによって解放される。
そこには沙織の正直さが持つもうひとつの面が表れるのだ。彼女の正直さはゲイたちに現実を突きつけると同時に、飾らない自分自身に目を向けることを求める。本当の自分と外部に向けた自分の間に大きな隔たりがあったゲイたちにそれを一致させることを求めるのだ。彼女の正直さがそのような生き方を彼らに示すのだ。特に山崎は沙織と仲良くなり、本当の自分を解放する。 そのクライマックスであるのがダンスホールのシーンだが、それはこの映画のクライマックスでもある。このシーンは本当に素晴らしい。世の中の人々の偏見と、それに対する沙織の怒り、その偏見を受け続けてきたゲイたちの反応、そのゲイとゲイではない人々とそして沙織の関係を見事に描き出す。このシーンでもつれ合う感情を解きほぐして行くと、そこには本当にいろいろなものが混ざり合っていることがわかるのだ。沙織と春彦の関係も、複雑だ。
この映画がこのように味わい深いものになったのには、やはり役者たちの存在が大きい。オダギリジョーと柴崎コウはいつも変らないといえば変わらないのだが、それでもやはり力を感じさせる。演技がものすごくうまいというわけではないけれど、うまくキャラクターを作り出し、非常に魅力的に見える。田中泯はゲイバーのママというキャラクターとしては台詞回しなどたどたどしいところがあるが、存在感がすごくあり、特に立ち姿の持つ雰囲気は抜群である。肩越しにカメラのほうを向くその姿と射すくめるような目は印象に強く残る。この目の力を見ながら、柴崎コウと親子というキャスティングに納得が行く。この二人の目はどこか似ている。
そして、他の“メゾン・ド・ヒミコ”の住人たちがなんと言ってもいい。舞台役者たちで固めたそのキャストにはまさに隙がない。特に重要な役回りである山崎を演じた青山吉良は本当に素晴らしいし、それほど出番は多くないもののゲイの老人という役どころを非常にうまく演じていた柳澤愼一も印象に残ったし、いかにもゲイという役を演じた村上大樹もうまかった。
さらに言えば、さりげない印象の音楽もすごくいい(エンドクレジットで細野晴臣と知って納得がいった)し、衣装もおかしくてよかった。
ゲイを主人公にした映画には名作が多いが、これもその名作の列に加わる作品であると思う。