バード
2005/12/18
Bird
1988年,アメリカ,161分
- 監督
- クリント・イーストウッド
- 脚本
- ジョエル・オリアンスキー
- 撮影
- ジャック・N・グリーン
- 音楽
- レニー・ニーハウス
- 出演
- フォレスト・ウィッテカー
- ダイアン・ヴェノーラ
- マイケル・ゼルニカー
- サミュエル・E・ライト
- キース・デヴィッド
洗面所でヨードを飲んで自殺未遂を図ったチャーリー・パーカー。彼と彼の妻チャンは彼が音楽を始めた頃、そしてふたりが出会った頃のことをそれぞれに回想していく。麻薬におぼれながらもサキソフォニストとして人気を博すようになったチャーリー・パーカーだったが、彼の人生は苦しいものだった…
大のジャズ・ファンであるクリント・イーストウッドが“バード”への想いを込めて作り上げた伝記映画。フォレスト・ウィッテカーの鬼気迫る演技がいい。
映画の終盤でディジー・ガレスピーはバードに言う「殉教者はみなに尊敬される」と。チャーリー・パーカーに限らず、夭逝した天才は長生きした天才よりも伝説として語り継がれ、人々の尊敬を集める。もちろんチャーリー・パーカーは偉大だ。しかし、この作品のもほとんど登場しないディジー・ガレスピーもまた偉大だった。どちらがより偉大なのかということを比べるのはナンセンスだ。にもかかわらず、夭逝した“バード”のほうが天才というイメージが強い。
この作品は、そのような“バード”の伝説を強化する。そのような伝説的な人物のほうが映画になりやすく、ドラマを描きやすいからである。ディジー・ガレスピーの伝記映画を作ってもこれほどには面白くならない。そこにはここまでのドラマが存在していないからだ。
つまり、これはチャーリー・パーカーというミュージシャンの偉大さを称え、伝える物語で話に、“バード”という伝説的な人物の生涯を通じて、人間の生き様というドラマを伝えようという物語なのである。そこに、ミュージシャンとしては同じように偉大なチャーリー・パーカーとディジー・ガレスピーの違いが生じる。その証拠に、この作品はあまり彼の音楽性に触れていない。ビーバップがどのようなものかとか、モダン・ジャズの歴史に彼がどのように寄与したのかとか、そういったことには触れずに、“バード”という人物にだけそのスポットを当てるのだ。
それは、この作品にとどまらず、あらゆるアーティストの伝記映画にも言えことである。画家モディリアーニの生涯を描いた『モンパルナスの灯』、画家ゴッホの生涯を描いた『炎の人ゴッホ』など、人生にドラマがある芸術家の伝記のほうがドラマにしやすいのだ。
もちろん、だからといってこの作品の映画としての価値が下がるわけではない。映画にしやすい題材でも、映画にしにくい題材でも、映画として面白いものを作ることが出来れば、いいのである。その意味で、この作品を作ったクリント・イーストウッドは素晴らしい。イーストウッドは監督としては作品の質に少々むらがあるようにも思えるが、この作品はその思い入れの強さもあってか、かなりいい出来になっていると思う。
人々は、チャーリー・パーカーという人物にも、その音楽にも興味を持つことが出来るし、そして彼の人生から自分の生き方と、自分の人生において大切なものとは何かを考えさせられる。それを考えるには、この“バード”の人生はあまりに絶望的すぎるという感じはあるけれど、そのような中からうまれた素晴らしい音楽を私たちは聴くことが出来るのだ。そのことの意味は計り知れないほど大きい。
この映画を観ると、やはりチャーリー・パーカーやディジー・ガレスピーの音楽を聴きたくなる。彼らの人生は、このような伝記映画よりも、演奏にこそこめられているのだ。そのことを伝えるための3時間というのはあまりに長すぎるという気もするが、今度彼の録音を聞くとき、その人生の絶望や苦しみを思うと、また違ったふうにも聞こえてくるだろうし、そこから伝わって来るものもあるのではないか。
完全に脇役に徹し、自己主張しなかったイーストウッドの演出もなかなかのものだと思う。