巴里の空の下セーヌは流れる
2005/12/21
Sous le Ciel de Paris Coule la Seine
1951年,フランス,120分
- 監督
- ジュリアン・デュヴィヴィエ
- 原案
- ジュリアン・デュヴィヴィエ
- 脚本
- ジュリアン・デュヴィヴィエ
- ルネ・ルフェーブル
- 撮影
- ニコラ・エイエ
- 音楽
- ジャン・ウィエネル
- 出演
- ブリジット・オーベール
- ジャック・クランシー
- クリスチアーヌ・レニエ
- レイモン・エルマンティエ
- マルセル・プランス
- ダニエル・イヴェルネル
- ジャン・ブロシャール
- マリー=フランス・ボワイエ
- シルヴィー
ある日のパリ、郊外の工場ではストライキが行われており、そこで働くマシアスは銀婚式のお祝いができるかと気を揉んでいた。そのパリに田舎からやってきたデニースは馬車の御者に名前を言われて不思議に思いながら、旧友のもとを訪ねる。猫をたくさん飼うおばあさんは、猫にやる牛乳代がなく、誰かが恵んでくれないかと町をうろつく。
あるパリの一日を、リアリズム的に描いた佳作。監督はサイレント時代から活躍するフランス映画の巨匠ジュリアン・デュヴィヴィエ。
映画はナレーションとともに、パリに住むいろいろな人々を紹介することからはじまる。芸術家の卵、工場で働く男、田舎からやってきた娘、猫にる牛乳代に事欠くおばあさん、テストのプレッシャーに押しつぶされそうな医学の卵、などなど。彼らはごく普通の人々、パリでなくとも、都会ならばどこにでもいるような人々である。そんな彼らにとって決定的な一日になったりならなかったりするその一日をこの映画は淡々と描いている。
そこには、ほとんどドラマといえるようなものはない。主なプロットといえるのは、田舎からパリに出てきた娘デニースが幼馴染で求婚されている芸術家の卵と1年文通を続けてきた実業家との間で揺れるという話。そしてそれとつながるように、デニースの旧友のモデルの娘と恋人である医者の卵との関係と、その医者の卵が試験に受かるかどうかという話がある。それに加えて、ストに参加する労働者マシアスが銀婚式の宴会をできるのかどうか、テストで悪い点を取った少女が家に帰れずに町をうろうろする、といったエピソードがある。
その一つ一つは、ドラマというにはあまりに単純なエピソードであり、その物語に引き込まれるというところまでは行かないし、それらのエピソードが複雑に絡み合って行くということもない。しかし、そこに一人の怪しげ男がいる。怪しい目つきをして町をうろつき、包丁砥ぎにナイフを砥いでもらう。この男がいったい何をするのか、それが他の人たちとどうかかわって行くのか。この部分がこの映画にサスペンス的な面白みを与えている。
そして、この男もまた、パリのような都会には必ずいるような人間である。ある意味では、都市のメタファー、むかし「東京砂漠」という言葉が流行ったが、人が数多く集まるがゆえに、人と人との関係が希薄になり、逆に孤独になるという、その都市の性質を象徴する人物である。それは猫の牛乳代を恵んでもらおうと町を歩き回るおばあさんにしても同じことだ。彼女もパリの都会の孤独、人間関係の希薄さの被害者である。
この映画は、そのような「都市の現実」をリアルに描く。夢物語や、作られたドラマではなく、本当にどこにでもありそうな出来事を描いたドラマなのだ。そんなものが面白いのか、現実なんて見飽きているよ、と思う人も多いかもしれない。しかし、ここに描かれた現実は、いわば都市に住むわれわれ(今ではもう人間関係の希薄化は都市に限られなくなってしまったが)の生き方を写す鏡なのである。鏡によって改めて自分自身の姿を見せられるとき、自分の姿を確認し、時には新しいことを発見する。
この映画は、結末まであまりにリアルである。映画のリアリティとは何かというのは難しい問題だが、この映画は物語という点でいえば、まさしくリアリズム映画だということができる。その結末の悲喜劇を見ながら、現実の厳しさや、人と人との関係の温かみを考える、それは翻って私たち自身の生き方を考えるきっかけになるのだ。