エイリアン
2005/12/24
Alien
1979年,アメリカ,118分
- 監督
- リドリー・スコット
- 原案
- ダン・オバノン
- ロナルド・シャセット
- 脚本
- ダン・オバノン
- 撮影
- デレク・ヴァンリント
- 音楽
- ジェリー・ゴールドスミス
- 出演
- トム・スケリット
- シガーニー・ウィーヴァー
- ジョン・ハート
- ヤフェット・コットー
- ハリー・ディーン・スタントン
- ヴェロニカ・カートライト
- イアン・ホルム
地球への帰路についていた宇宙船ノストロモ号、乗組員達が冷凍睡眠から起こされ、地球に到着するための準備を始めるが、実は謎の信号を受信したことが理由だった。船長のダラスたちはその発信源の調査のため未知の惑星に降り立つ…
今や伝説となった『エイリアン』の第1作。多くのエイリアン物がこの作品を踏襲しているために、今見ると作品としてのインパクトは弱いが、それでも、この作品が持つ価値は変わらない。リドリー・スコットもシガニー・ウィーヴァーもこれで有名になった。
2~4と続く「エイリアン」シリーズやこの『エイリアン』を踏襲した多くのSFホラー作品を見てからこの作品を見直してみると、さすがにその怖さやスリルは以後の作品には劣る。70年代終わりの特撮技術ではエイリアンも一部(たとえば飛び出てくる口だけ、尻尾だけなど)が可動するだけの仕組みで、全身が動いている場面では着ぐるみであることがはっきりとわかってしまう。そこに違和感を感じたのは、エイリアンに“手”があることだ。2以降でも手はあったような気はするが、それは恐竜のようにごく小さいものだったはずだが、この第1作のエイリアンはまるで人間のような手を持っている。ダラスがエイリアンに遭遇した場面に一瞬映るエイリアンに違和感を感じてしまったのも、その手のせいだった。
そんなこともあって、人間くさいエイリアンはそれほど怖くないという気もしてしまう。はじめてみたときはもっと怖かったと思うのだが、そのあと2や3の印象がそこに重ねあわされてもっと、ハラハラドキドキするはずだという期待感があったせいか、迫り来るエイリアンの恐怖とかが足りないように思えたり、エイリアンが強いというよりは、人間の間抜けさがその死を招いているという印象が強かった。 しかし、それはこの作品の狙いなのかもしれないと思う。「エイリアン」シリーズというと、圧倒的に残虐で無慈悲で強力なエイリアンに人間が殺されていくというイメージだが、実は、エイリアンとはいわゆる「エイリアン=他者」の象徴であり、他者に対する恐怖心が、実際以上に相手に恐怖を感じてしまうという仕組みがこの段階ではまだあった。
それがよく表れているのはアンドロイドに対する人間たちの態度である。アンドロイドとはロボットという他者と人間との間にいるあいまいな存在である。それが人間然としている間は人々は人間として接するが、ロボットとわかったとたんに、それは他者となり、人間はそれに対して残虐な態度を取れてしまうのだ。それに対して猫には残虐な態度を取れない。それはペットであり、人間の側にいる生き物であるからだ。
そのような自己-他者の対立構造が「エイリアン」というコンセプトには存在するのだと改めて思った。しかしそれは2,3,4とシリーズが進んでいくにつれ、エンターテインメント性が強まり、薄れていってしまった。他者は最初から他者然として、自己を省みるための鏡とはならなくなってしまった。それがハリウッドというところなのだろう。
エイリアン物のSFには常にそのような自己-他者という問題が付きまとう。それはエイリアンが典型的な他者であるからだ。他者をはなから拒絶するのか、それとも対話をし、コミュニケーションを図ろうとするのか、そこにその作品の基本的な思想が表れるのだ。そして、その思想は多くの場合その作品が作られた時や場所の思想を反映している。現在のハリウッドでエイリアンの大虐殺が行われているのは、今のアメリカが他者に対して非常に非寛容な国になっているからだ。
それと比べると、この頃はまだ他者を受け入れようという寛容性があったように思える。
この作品にはフェミニズム的な男性恐怖が描かれている。エイリアンの頭部の形状は男性のペニスを想起させるし、隆起してきた突起物が相手のことを突き刺し、そして、種を植え付けてお腹から子供を生ませる。これは明らかに男性の暴力性を象徴したものであるといえるし、そのような考え方に基づいた本も何冊か書かれている。それはこの頃、フェミニズムが一つの思想的流行であったことにも関係してくるだろう。男性による暴力的な支配構造からくる性の不平等、エイリアンはその男性の暴力的な支配を象徴しているのだ。
それがもっとも明白になるのは、もう一人の女性乗組員ランバートがエイリアンに遭遇する場面である。エイリアンに正面から迫られたランバートはまだ物理的な力は加わっていないのに、何もすることが出来ず、ただ泣き叫ぶ。音だけ聞いていいると、そのシーンはまるでレイプシーンのように聞こえる。
そしてランバートは隆起してきた突起物にむざむざと突き刺されて死んでしまう。これは内なる他者たる男性の告発を意味しているのではないか。
この作品はつまり、「エイリアン」という他者の象徴を使って、さまざまな自己-他者関係を問うている作品だとも言うことが出来るのだ。
SF作品としてのインパクトが弱まっても、SF映画史上の価値以外に、そのような思想的なしさも読み取ることが出来る。それもこの作品が見続けられる要因なのかもしれない。