チャーリーとチョコレート工場
2005/12/29
Charlie and the Chocolate Factory
2005年,アメリカ=イギリス,115分
- 監督
- ティム・バートン
- 原作
- ロアルド・ダール
- 脚本
- ジョン・オーガスト
- 撮影
- フィリップ・ルースロ
- 音楽
- ダニー・エルフマン
- 出演
- ジョニー・デップ
- フレディ・ハイモア
- デヴィッド・ケリー
- ヘレナ・ボナム=カーター
- ノア・テイラー
- ミッシー・パイル
- ディープ・ロイ
- クリストファー・リー
ウォンカ社の秘密に満ちたチョコレート工場がある街のハズレで極貧の生活を送るチャーリーとその家族。ウォンカ社が世界中で5人の子供たちを工場に招待するというゴールデン・チケットをチャーリーも欲しくて仕方がなかった。しかし、チャーリーは年に1回、誕生日にしかチョコレートを買ってもらえない。そしてその誕生日がやってきて、チャーリーはチョコレートを手にするが…
ロアルド・ダールの児童文学『チョコレート工場の秘密』の2度目の映画化。原作も単なるファンタジーではなかったが、ティム・バートンはその世界を見事に映像化している。
なんと言っても、最高なのはウンパ・ルンパだが、このウンパ・ルンパが面白いと思えるかどうかで、この映画の評価は大きく分かれる。この手の笑いが生理的に受け付けないという人にとっては、この映画は子供向けのファンタジーに空騒ぎをプラスしただけの薄っぺらい映画にしか見えない。それに対して、ウンパ・ルンパを笑える人にとってはこの映画は最高の映画だ。ファンタジーの世界にどっぷりと浸れるし、その中に含まれた毒も楽しめ、アホみたいな音楽に爆笑できる。こんな幸せな映画はない。もちろん、せっかく映画を見たのだから楽しめたほうがいいに決まっているのだが、そこは感性の問題で、人それぞれなのは仕方がないことだ。でも私はこの映画好きだ。いくら「全然おもしろくなかったよ~」という人がいようと、この映画をひとに勧めると思う。
さて、ウンパ・ルンパはさておき、いやウンパ・ルンパも含めてだが、この映画の最大の魅力は“毒”にある。この映画は外見はディズニーランドのような夢の世界のようであり、それはまさにチョコレートのように甘い世界であるように見える。しかし一歩足を踏み入れると、そこには痛烈な皮肉という“毒”がある。
ディズニーランドに代表されるファンタジーの世界というのは現実逃避のための世界であり、そこには厳しい日常を思い出させるものがあってはいけない。ディズニーランドにいる間はみな普段の自分とは違う人間(とは限らないが)として生きるのだ。そして、このチョコレート工場も、そのような夢の世界のようである。しかし、そこで子供たちは強烈なしっぺ返しを食う。それは、彼らはファンタジーのような日常を生きている子供たちだからである。
ここで観客は自分がいるのがファンタジーの世界ではないことに気づく。映画の物語は彼らが暮らすファンタジーの世界を笑っているのであり、ということは、映画へ視線を向ける観客がいるのはファンタジーの世界ではないということなのだ。観客はファンタジーの世界にいると思っていたのに、ファンタジーの空虚さを笑い、大げさに言えば現実の生の素晴らしさを実感する。 それは、ファンタジーと現実が交錯するあらゆる場面で立ち表れてくることだ。ウィリー・ウォンカもまたファンタジーの世界の住人だから、彼が現実に直面するときにも同じことが起きるからだ。
ここでやはり話はウンパ・ルンパに行くが、ここから先はあまりおもしろくないし、映画とは関係ないので、興味がある人だけ読んでください。
ウンパ・ルンパのおかしさを笑えるかどうかということには3つのあり方があると思う。ひとつは、ただ音楽や動きなどのビジュアルがおもしろいということで笑うという一番素直な反応。もうひとつは、そのグロテスクさから笑えないという反応。グロテスクなものを笑うというのはいわゆる差別とも結びつき、道徳的あるいは倫理的によくないというブレーキが(無意識に)働いて、素直に笑えなくなってしまっているという場合である。最後は、それが持つ毒をあえて笑うというあり方。つまり、ウンパ・ルンパをグロテスクなものを笑うということに対する忌避をパロディ化したものとして笑うという場合である。
もちろん多くの人は、この3つが混ざり合った形でウンパ・ルンパをとらえるわけだが、大まかに言えば、そんな3つのとらえ方があるということだ。ここに実はこの映画の面白みと深みの真髄があるのだと私は思う。原作の「チョコレート工場の秘密」は当時の社会に対する風刺が強く込められた作品だ。そして、ティム・バートンはそれを映画化するに際して、それを現代の社会問題に置き換える。子供たちに関していえばそれは非常にわかりやすい形で表れている。そして、ウンパ・ルンパもそのような風刺のひとつである。ウンパ・ルンパはいわば奴隷労働者であり、小人(子供を連想させる)である。そして彼らはアフリカから連れてこられた。そこには奴隷と差別、南北問題が横たわる。実際、われわれが口にする安価なチョコレートの生産を支えているのはアフリカなどの(子供を含む)安価な労働力であり、そこで働く人々はわれわれから見れば奴隷同然の労働環境で働いているのだ。
もちろん映画を見ながらそこまでは考えないが、ウンパ・ルンパとは、そのようなこの現実世界の陰の存在の象徴であり、同時に彼らがそんな自分自身を笑い飛ばすというエネルギーの象徴でもあるのだ。そして、彼らは虐げられた人々の表象をみな持っている。ウンパ・ルンパはみな同じ顔をしている(=顔がない)、ウンパ・ルンパはしゃべらない(=言葉がない)、個性も名前も言葉も持たない存在、それがウンパ・ルンパなのである。それは考えてみれば、近代の黒人奴隷と変わらない。しかし、彼らはそんな自分自身を笑い飛ばすことで、その反映として全てを持っているはずの子供たちの醜さを笑う。それは差別され、虐げられる者たちが取る常套手段である。そんな彼らを笑うということは彼らを虐げている自分自身を笑うことである。そして、あえてそんな自分自身を笑うことで、そのことに気づくのだ。
この映画はおもしろい。特にウンパ・ルンパのシーンは最高だ。だからこそいろいろ考えてしまう。でも、いろいろ考えて、もう一度見てみてもきっと最高におもしろい。そんな作品だと思う。