トリコロール 白の愛
2006/1/4
Tris Couleurs: Blanc
1994年,フランス=ポーランド,92分
- 監督
- クシシュトフ・キエシロフスキー
- 脚本
- クシシュトフ・ピエシェヴィッチ
- クシシュトフ・キエシロフスキー
- 撮影
- エドワード・クロシンスキー
- 音楽
- ズビグニエフ・プレイスネル
- 出演
- ジュリー・デルピー
- ズビグニエフ・ザマホフスキー
- ヤヌシュ・ガヨス
性的不能が原因で妻のドミニクに離婚をせまられたポーランド人のカロルは住む家もなく金もなくなってしまった。ある夜、地下道でポーランドの曲を奏でていたところに同胞のミコライが声をかけスーツケースに収まって母国へ帰ることを思いつく…
キエシロフスキーの「トリコロール」シリーズの「白」は3作の中では唯一、男性が主人公となっている作品。
この作品の生々しさが好きだ。キエシロフスキーというと、イメージとしてはアート系で静かな映画、東欧らしく寒々とした映像という印象がある。しかし、この監督は生々しい人間ドラマを得意として来た。確かに、映像はスマートでクールという感じだが、そこに描かれたドラマは人間臭く、リアルなのである。
この作品は、そんなキエシロフスキーらしさが十分に発揮された作品だ。性的不能が原因で離婚を迫られる外国人の夫、それは言葉もあまり通じないふたりの間をつないでいたセックスという唯一の糸が切れてしまったということを意味する。そこには愛の生々しさがある。片言のフランス語でコミュニケーションをとる夫婦の間に愛は存在しえるのか。セックスという糸が切れたことで、そこに愛が存在していないことに気づいたドミニクからはそんな「愛とは何か」という問いが浮かび上がる。
そして、ポーランドに帰ってからもドミニクに焦がれるカロルは果たして何に突き動かされているのか。具体的な目標は明らかではないが、とにかくドミニクとの関係のために危ない橋を渡ってでも金を稼ごうとするカロルが彼女に求めているものはいったい何なのか。コミュニケーションが取れず、セックスもできない妻に彼は何を求めているのか。
そこに、この淡々と進んでいるように見える映画のサスペンスがある。
キエシロフスキーの映画のもうひとつの特徴といえば、説明が非常に少ないということだ。言葉による説明はもちろん、いわゆる説明のためのショットやシーンというものがほとんどない。スクリーンの上で展開されていることを観客が理解しやすいように、何かを説明するということがほとんどないのだ。この作品でも、カロルの行動のほとんどには説明がなく、彼はいきなり行動をし、その結果はいきなりやってくる。次に何が起こるのかが予想しずらく、それが逆に観客を引き込んで行くのだ。この作品でも、説明的な部分といえば、カロルがミコライにドミニクとの馴れ初めを話すところくらいで、国に帰っても兄は何も聞かず、それまでにおこったことが説明されることもない。ただただ中心的なプロットの展開に必要なエピソードを積み重ね、物語が展開して行くだけなのだ。それがどこか淡々としているという印象を与えるが、それは淡々としているようでいて、実は非常に展開力のあるプロットなのである。
そして、そこまでプロットを切り詰めて行ったがゆえに、中盤ほとんど登場しないドミニクが、カロルと並んでこの物語の主人公になりうる。観客はカロルの視線に引き込まれ、常にドミニクを意識させられるがゆえに終盤になってドミニクが再登場してくるときも、それをスッと受け入れることができるのだ。これがカロルの側のエピソードにごてごてと説明や余計な物を加えて行ってしまうと、カロルとドミニクの関係の緊張感がそがれて、尻すぼみの展開になってしまったのではないだろうか。
多くの映画はそのような余計なものを付け加えつつ、尻すぼみになることを防ぐため、ドミニクのエピソードも織り込んでいって、物語を複雑にしていき、その複雑さが何かを語っているかのような印象を観客に与えようとする。
確かに、そのほうが映画としてわかりやすく、気安く楽しめるわけだが、映画として優れているのは、この作品のように、余計なものを徹底的にそぎ落とした作品だと私は思う。余計なものが何もついていないまっすぐなプロットは鋭利な刃物のように観客の心を貫くのだ。
キエシロフスキーの映画の冷たさは、刃の金属の冷ややかさに似ている。