エリ・エリ・レマ・サバクタニ
2006/1/25
2005年,日本,107分
- 監督
- 青山真治
- 脚本
- 青山真治
- 撮影
- たむらまさき
- 音楽
- 長蔦寛幸
- 出演
- 浅野忠信
- 宮崎あおい
- 中原昌也
- 岡田茉莉子
- 筒井康隆
- 戸田昌宏
- 鶴見辰吾
- 川津祐介
近未来の日本、“レミング病”と呼ばれる「自殺」を誘発するウィルスが蔓延していた。ミュージシャンのミズイとアスハラは自然の中の様々な音を集め、それをコンピュータに入力して音楽を作るという活動を人里はなれた廃校でひっそりとやっていた。一方、資本家のミヤギはレミング病にかかった孫娘を救う方法を探偵をやとって探していた…
タイトルの「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」は、聖書の一説(マタイ伝27-46)で「神よ、何故に我を見捨てたもうや」という意味。
青山真治が主演に浅野忠信と作家でありミュージシャンでもある中原昌也を迎えて撮った“音響”映画で、爆音が鳴り響く。大きな音が苦手な人は見ないほうがいいかもしれません。
ノイズ、ノイズ、ノイズ、この映画の印象はまずそのようなものだ。様々なものを楽器にするという発想は面白く、自然のものの音を聞くのは楽しい。しかし、それをコンピュータで処理し、音にしてしまうと、どうしてもノイズに聞こえてしまう。その際たるものが、映画の中盤あたりに登場する木の板に針金を張った即席の楽器である。これを弦楽器の弓で引っかいたりたたいたりしながら、そこにつないだアンプやら何やらで音を調整して行く。その音色の変化は確かにわかるが、どれを聞いても基本的にはノイズにしか聞こえない。しかもそれがかなり長い時間続くので辟易してしまう。
しかし、それらのノイズとしか思えない大音響が波の音と対比されるとき、そこに類似性が感じられるにもかかわらず、波の音はノイズとは感じられない。そしてここでアスハラは「かてないなぁ」とつぶやく。ここから浮かび上がってくるのは、彼がノイズを集めることによって波のような音響を手に入れようとしているということである。音楽というよりはノイズであるのに人々が心地よいと感じるような音、それを求めているのだ。そして、そこからはさらに音に対する人間の感性という問題が浮かび上がってくる。どのような音を心地よいと感じ、どのような音をノイズと感じるか。心地よいと感じる音は音楽となり、ノイズと感じる音は雑音となる。
「音楽が病気の進行を止める」というこの映画の物語もそのような音に対する感性の問題につながって行く。それは、このレミング病のウィルスが彼らの奏でる音を「食べる」ということである。このウィルスにとっては彼らの音を聞くことは人間を自殺に追いやることと生理的に同じことだということだ。そう考えると、彼らの音とはつまり「生きる意欲」であり、レミング病のウィルスが食べつくすのも「生きる意欲」であるということだ。人間の中にある「生きる意欲」が食べつくされたとき、発症し、自殺してしまう。彼らの音は「生きる意欲」を聞くものに注ぎ込み、レミング病の進行を止める。
しかし、音楽の感じ方には違いがあるのだから、みなにこの図式が当てはまるわけではない。そのあたりでこの物語は曖昧になる。“意味”のように見えていたものは霧散し、個としての人間と、音だけが残る。ここに登場する人々は決して共通した意味を見出す事はなく、それぞれがそれぞれの「生きる意欲」をあてもなく探し回る。音に救われることもあれば、逆に音に殺されることもある。音は人間の整理に直接的に結びつくがゆえに、力を持つ。
この映画を見ながら、その音響から身を引きたくなるのは、大きな音というのが人間の生命の危機に対する警告であるからだ。大きな音を出す大きなものは危険なものである。だから人は危険を知らせるとき大声を出す。
危険を知らせるものである大きな音、それが命を救うという逆説、1時間以上の時間、警告を聞き続けた体は、最後の静かな十数分間で少しほっとするけれど、映画を見終わってもやはりざわざわとしている。そこからこの映画について考えてみると、今まで書いたような解釈はまったく無意味にも思える。体は危険を回避するために反応し、それ以外のメッセージは体のほかの部分にポトリと落ちて行ったのではないかと思える。
それは、映画を物語としてみるのとはまったく違う体験ではあるかもしれない。しかし、疲れるし、心地よくはないし、そのようにして落ちてきたものがなんなのかは結局はっきりとしない。この映画のノイズの中にひっそりと込められた音楽に感応することができるか、それがこの映画の全てなのではないか。絶望からはじまる希望、それをつかむことができるかどうか、そんなことが頭に浮かんだ。