暴れ犬
2006/1/28
1965年,日本,94分
- 監督
- 森一生
- 脚本
- 藤本義一
- 撮影
- 今井ひろし
- 音楽
- 古谷充
- 出演
- 田宮二郎
- 草笛光子
- 金井克子
- 大坂志郎
- 坂本スミ子
- ミヤコ蝶々
- 芦屋小雁
暇はあるが金はない、そして、ハジキと女には目がない一匹狼のヤクザもん鴨井大介、木賃宿の払いを建て替えてもらった病身の男に、ハジキを渡され、女と逃げるための資金を作ってきてくれと頼まれる。その算段に行った先で、刑事からその拳銃が最近で回っている輸入者だと聞き、その裏を探る算段をするが…
田宮二郎主演の「犬」シリーズの第4作。名コンビの天知茂に代わって同僚の刑事として大坂志郎が登場し、なかなかの味を見せる。草笛光子という大物女優も登場し、シリーズとしての格が上がった感じ。
この時代の作品には、よく歌や踊りのステージのシーンが登場する。しかもそれが、物語の小道具として使われるわけでは必ずしもなく、かなりの長さにわたって、ステージを見せる目的だけで映画に織り込まれているように見えるのだ。現在の映画では(日本映画でも外国映画でも)、ミュージカル映画でもない限り、そのようなことはほとんどない。ステージのシーンが登場するとしたら、それはプロットの展開にかかわる何かの事件のきっかけだったり、そのステージを見る客席で何か事件が起こっていたりするわけだが、この作品をはじめとする60年代頃の日本映画に登場するステージ・シーンは物語とは完全に独立した形で挟まれていることが多い。
これは、それのようなステージを見るということが、観客にとって楽しみだったからだ。まだそれほどTVも普及していなかった当時だから、ラジオで歌を聞いたことはあっても、実際に歌ったり踊ったりする姿を見られることは希だった。だから、当時の大衆娯楽の王様であった映画がその機会を提供したということだろう。当時の観客は田宮二郎のアクションを見、金井克子の歌と踊りを見て大いに楽しんだ。それはこの作品に限らず当時の多くの作品に観られる傾向だ。だから、そのために時間はたっぷりととられ、1曲フルコーラスで歌えるくらいの長さのシーンになったのだ。
この作品でも、金井克子が歌って踊るシーンが2回も挟まれる。ひとつはもう一人の踊り子とのステージのシーン、もうひとつは一人で練習をしているシーンだが、どちらも数分にわたって中断されることなく、彼女は歌って踊る。金井克子は現在も活躍中の歌手で、由美かおるや奈美悦子とともに西野バレエ団から「レ・ガールズ」という歌って踊れる本格的なグループとして60年代前半に活躍、金井克子はその中でも中心的な存在だった。したがって、この作品が作られた1965年には、彼女はまさにアイドルのような存在であり、彼女が登場するということは、映画にとってもいい宣伝になったのだろう。
そのようなことからも、当時の映画界に状況を見ることが出来る。スターを看板にしたシリーズものに、ヒロインとして手を変え品を変え女優を登場させ、さらにスパイスとして流行の歌手を登場させる。そのように1本の映画にいろいろなものを放り込むことで誰もが楽しめる娯楽を作り上げる。今見ると、このないがステージは、物語の流れを断ち切ってしまうものという感想を持ってしまうけれど、時代性を考えながら見る(考えずに見ることは出来ないだろうけれど)ならば、これも味だと思うことが出来る。
さて、映画の内容のほうだが、田宮二郎と第3作までのうちの2本で名コンビを演じた天知茂(“しょぼくれ”)はまたお休み(一本おきという計算になる)、代わって大坂志郎(“三文役者”)が登場する。彼は彼なりに存在感を示していたが、やはり天知茂と比べると田宮二郎との呼吸もいまいちで、どう見ても、天知茂の役の代打にしか見えない。このシリーズの頂点とも言われるこの次の第5作『鉄砲犬』にはまた天知茂が登場するから、やはりそれに期待したほうがいい。
そして、シナリオのほうも今ひとつだ。結末に至るまでの展開はなかなかうまく、先が気になる構成になっているのだが、どうも結末が落ち着かない。結局、どのような事件だったのかが今ひとつ判然としないのだ。最後は事件がなんとなく片付いたような形になりつつ、鴨井大介と女との関係で終わりにするというのはハリウッド映画のようなごまかし方に見える。だから、観終わった後の爽快感がいまいち。この「犬」シリーズはやはりアクションもプロットも爽快じゃなきゃいけない。