みなさん、さようなら
2006/2/7
Les Invasions Barbares
2003年,カナダ=フランス,99分
- 監督
- ドゥニ・アルカン
- 脚本
- ドゥニ・アルカン
- 撮影
- ギイ・デュフォー
- 音楽
- ピエール・アヴィア
- 出演
- レミー・ジラール
- ステファン・ルソー
- マリ=ジョゼ・クローズ
- マリナ・ハンズ
- ドロテ・ベリマン
- ルイーズ・ポルタル
末期がんで余命いくばくもないモントリオールの大学の教師のレミの見舞いにロンドンでブローカーをしている息子のセバスチャンがやってくる。レミとセバスチャンは昔から不仲で、母ルイーズは彼らを仲直りさせたいと考える。しかしどちらも意地っ張りで、なかなか心を開こうとしない…
原題は「蛮族の侵入」というインテリ監督ドゥニ・アルカンらしいものだが、内容は親子愛を描いたハートフル・ドラマ。
愛人を次々と作り、息子に理解されなかった左翼の知識人の父親の死。その父親の死を娶る息子の話である。息子は父親が苦しまずに死ねるように方々に手を尽くし、出来る限りのことをしようとする。その姿を見ると、彼は父を赦し、互いを赦しあって父は死んで行くように見える。
しかし、本当にそうだろうか。もしそうだとしたら、息子がそのように態度を変化させるきっかけは「お前を愛していたんだ」という母親の言葉だけということになる。確かにそれは気づきのきっかけにはなるだろうが、それでそれまでの態度を一変させることが出来るだろうか。セバスチャンはそれによって父を赦したのではなく、それまでの自分の態度を悔いただけなのではないか。その罪滅ぼしのために、自分が罪の意識をぬぐうために、父親に精一杯努力をするということを選択した。ただそれだけのことなのではないだろうか。
その証拠にというか、そのように見えるの理由は、ふたりが結局は同じ方向を見てはいないからだ。セバスチャンは父親が安楽に死ぬことを考えるが、父親は死にたくはないと考えていた。セバスチャンにしてみれば,父親が苦しまずに死ねば、自分の仕事は終わり、罪は雪がれる。しかし、それが本当に父親が望んだことなのか。結局、父は死を受け入れるけれど、それは息子の努力に報いようという最後の親心だったのではなかったか。本当は死にたくはないが、生きていても息子をはじめとするまわりの人たちに迷惑をかけるだけだという心が最後に出てきたのではなかったか。
息子は、その父の気持ちを最後まで理解できていないのかもしれない。彼は父の死に満足してイギリスに帰って行くだろう。もちろんそれでいいのだ。それこそが父親が望んだことなのだから。しかし、ここにはセバスチャンが最後まで自己中心的で、自己満足な行動をしていただけだという警句が込められている。映画の終盤にセバスチャンがゲームセンターでゲームに興じる姿が映されるが、その短いシーンからもそのような彼の人間性が透けて見る。レミの友人たちも実はセバスチャンと同じである。彼を安楽に死なせることで自分の責任を回避しようとしているのだ。本当は早く彼が死んで自分の生活に戻りたいのだ。
それに対して、このレミの死をストレートに受け入れるのがナタリーである。彼女は麻薬によって死の間際まで近づいているからこそ、レミの死を感覚的にとらえることができる。彼の死を自分の死の実感としてとらえることができるからこそ彼の死の直後、麻薬を断ち切るためのくすりを一息で飲み干すのだ。
そして、そのこととこの映画に無意味のように挟まれる9.11のニュースが関係してくる。この映画の原題は「蛮族の侵入」だが、その言葉はこの9.11のニュースの解説者が発する言葉である。アメリカという“帝国”に初めて“蛮族”が侵入した瞬間、その瞬間をどう捉えるかということは、近親者の死をどう捉えるかということに似ている。それをどう捉えるのが正しいのかはわからない。しかし、その“死”を自分にひきつけて考えることが出来れば、それを恐怖に転換して、復讐をしようなどとは考えないはずだ。自分自身に死が訪れることを避けるために、自分自身が変わろうとするはずだ。 レミの友人たちはブッシュを笑うが、彼らもセバスチャンもみな実はブッシュ的な人間であるという皮肉がここには込められているのではないか。