続清水港
2006/2/11
1940年,日本,89分
- 監督
- マキノ正博
- 脚本
- 小国英雄
- 撮影
- 石本秀雄
- 音楽
- 大久保徳二郎
- 出演
- 片岡千恵蔵
- 轟由起子
- 澤村国太郎
- 沢村アキヲ(長門裕之)
- 廣澤寅造
- 香川良介
- 志村喬
- 美ち奴
「森の石松」という舞台を演出する演出家の石田は演出に悩んでいたところに、さらに専務に「石松を殺さないように」とまで注文をつけられる。石田はせっかく助言をしてくれた秘書の黒田を追い出してソファーでふて寝をする。すると、なんといきなり自分が森の石松になっていたのだ!
マキノ正博らしい破天荒な「森の石松」。マキノは次郎長ものを数多く撮ったが、この作品はその中でもかなり変わっていておもしろい。前年に『清水港』という作品を撮っていて、出演者も共通しているが、続編ではない。
マキノ雅広の映画はどうしてこんなにも楽しいのだろうか。この映画は森の石松の舞台の演出家が、その演出に悩んで不貞寝だか居眠りだかをすると、いきなり江戸時代にタイムスリップして、自分が石松になってしまっているという設定の話。しかも、自分が石松ではなく演出家の石田だということを覚えていて、周囲の人々も現実に周りにいる人々なのだから、夢だと考えるのが当たり前。しかし、その夢はちっとも覚めず、いつの間にやらその世界の住人でいざるを得ない状況になってしまっているという話。この設定だけでも最高に楽しいし、マキノ雅広はその設定を店舗よく展開させて行って観客を一気に引き込んでしまう。
脚本は黒澤作品などで知られる小国英雄だが、この頃マキノは小国とよく組んで仕事をしていたし、小国が黒澤作品の脚本を書くようになるのも、マキノの引き合わせとも言える。マキノは父省三の「一スジ」という教訓をよく守って、脚本家を大事にしたし、ほとんどの作品で自分でホンをなおした。自分でホンを直すというのは、脚本家のホンを否定することではなく、脚本家と一緒に演出の際のカット割などを考えながら練り直す作業である。だから、彼には気のあった脚本家が必要だったし、この頃はそれが小国英雄だったのだ。
そしてこの小国英雄の脚本をおもしろく撮るためにマキノは非常にシンプルにこれを撮った。ほとんど全てを時代劇の部分で取り、外見上は普通の「森の石松」と変わらないようにしたのだ。しかし、冒頭に数分現代劇が入り、常に石松が現代からタイムスリップしてきたのだということを意識させることによって、観客に現代を意識させ続けるのだ。この方法は映画の中で実際に現在と過去をごちゃ混ぜにして描くよりもよっぽど効果がある。このような単純化によって観客に受け入れられやすくするという演出方法こそマキノの真骨頂という気がする。
そして、マキノ雅広はマキノトーキーを作って日本映画に最初にトーキーを本格的に導入したひとりであるだけに音に対するこだわりが強い。この作品も浪花節を随所に織り込んだいうなれば浪花節映画だが、このように音楽を巧みに映画に織り込んで観客を楽しませる。そもそも「森の石松」は浪花節から出た話だから、浪花節映画にするというのも非常に単純でわかりやすい発想だが、そのわかりやすさによってマキノの映画はどんどんおもしろくなるのだ。
私は実際に浪花節など聞いたことはほとんどないし、浪花節を聞いて面白いと思ったこともない。しかしこの映画に登場する廣澤虎造の浪花節にはついつい聞き入ってしまった。それはその浪花節がこの映画の物語を語っているからであり、浪花節が映画と完全に一体になっているからだ。しかも狂言回しのように使われるのではなく、登場人物である浪曲師の歌として映画に登場する。この巧妙な設定で映画の観客を浪曲にまで引き込んでしまう。この廣澤寅造は戦後の『次郎長三国志』シリーズにも出演し、マキノの次郎長ものには欠かせない人物となったが、この作品を観るとそれもうなずける。
この作品は、結局は「森の石松」の話を少しひねっただけなのに、なぜかこんなにおもしろくなってしまっている。これからどうなるんだという期待、それはあらかじめ明かされている本家の「森の石松」のどんでん返しか、はたまた石田が本当に石松という人物を理解することにつながるのか、その先の読めない展開へのハラハラ感でもある。この展開力がすなわち「一スジ」の大事さであり、観客を引き込むマキノ・マジックの真髄なのである。この作品はまさにそのマキノ・マジックの力が存分に発揮された不思議に魅力的な作品なのである。
ちょっとしたエピソードを言えば、この作品で石松の許婚お富を演じている轟由起子とマキノ雅広はちょうど結婚して、大陸へ行って帰ってきたばかりで、マキノは「夫婦で楽しく仕事をして…」と自伝に書いている。