宇宙戦争
2006/2/23
The War of the Worlds
2005年,アメリカ,114分
- 監督
- スティーヴン・スピルバーグ
- 原作
- H・G・ウェルズ
- 脚本
- デヴィッド・コープ
- ジョシュ・フリードマン
- 撮影
- ヤヌス・カミンスキー
- 音楽
- ジョン・ウィリアムズ
- 出演
- トム・クルーズ
- ダコタ・ファニング
- ティム・ロビンス
- ジャスティン・チャットウィン
ニュージャージーに暮らすレイは週末、別れた妻からふたりの子供を預かったが、息子のロビーが無断で車を持ち出してしまう。その時、突然空に不気味な嵐が吹き荒れ、激しい稲妻が同じところに何度も落ちた。その現場を見にいったレイはそこから巨大なマシンが現れるのを目にする…
スピルバーグがH・G・ウェルズの古典SF「宇宙戦争」を再映画化。前作の1953年版は名作の評判高く、TVシリーズ化もされた。
この作品をどう捉えるべきかは微妙だ。映画としてはSFというよりはパニック映画、宇宙人の襲来に恐怖し逃げ惑う群集の一人を追った作品ということである。
近年のハリウッドの戦争映画といえば、アメリカ賛美とヒロイズムに終始することが多い。そして、この作品も序盤にレイの住む家並みにいくつもの星条旗が掲げられることからしてそのような作品のひとつかと想像させる。そして、映画が進むとレイの息子ロビーは軍隊を手伝って宇宙人を撃退するのに参加しようとし、その時、兵士たちは勇敢に適に立ち向かうヒーローに見える。そしてレイも家族を守るヒーローである。アメリカの愛国的戦争映画では常に国と家族を守るヒーローが描かれる。そして、途中登場するティム・ロビンス演じるオギルビーは“世界最強の”アメリカという言い方をし、「日本人でも出来たのだから…」と言う。
彼らに表れるているのは家族を守るものがヒーローだと思う者、命を賭しても国とその人々を守るものがヒーローだと思う者、アメリカを信じて戦う者である。そしてもちろん、最後には勝利するのだから、愛国的映画と捉えることも出来る。しかし、実質的にはその中で家族を守るヒーローであるレイだけが勝利を勝ち取るのである。そのことの意味はいったい何なのか。
別の方向から考えて見ると、9.11まで本土への攻撃を経験してこなかったアメリカにとって、強大な敵が本土を襲うというのは最大の恐怖と捉えられ続けきた。その対象は、第2次大戦時のドイツ、冷戦期のソ連あるいはキューバ、現在のアラブと変化し続けているが、その恐怖がぬぐわれることはない。この映画はそのアメリカ人の恐怖心を利用して、パニック映画らしいスリルを演出し、時に手持ちカメラを利用して観客の恐怖心をことさらに煽ることをやっているわけだが、それが愛国心をくすぐるということは『インデペンデンス・デイ』ほど明白ではない。なぜならば、この物語はアメリカに侵略された弱者たちのへと立場を置き換えることが出来るからだ。“誤爆”という名の下に空から爆弾を落とされ殺されていく人々とこの宇宙人のマシーンに殺されていく人々を重ね合わせれば、そのようなことも見えてくる。
しかし、もちろんそれによって反戦、アメリカ批判という方向にはもちろん行かない。結末に向かっては現代どおりの「世界同士の戦い」という大きなテーマから後退して家族の問題に終始する。これは尻すぼみという感じにもなるが、最後にテーマのすり替えを行って主プロットに結末をつけないというハリウッド映画の常套手段でもある。ただ、この作品はそのすり替えがあまりうまく行っていない。それはやはり原作があるからであり、原作との整合性のため、最後にナレーションを入れざるを得なかったからだ。
そのあたりの中途半端さが消化不良な印象を与えるのは仕方ないことだろう。そしてラストという点から言えば、(ネタばれになるが)この微生物による絶滅というエピソードはどうしてもアメリカ先住民を連想させる。ヨーロッパから持ち込まれたウィルスによって特に南米では多くの先住民が死んだ。つまり、この映画の設定とは逆のことが起こったわけだが、これはどこかで今のアメリカ人の祖先による“侵略”の正当化につながるような気もしないわけではない。
愛国主義を賛美もせず、否定もせず、かつ戦争に反対しているようにも取れるし、肯定しているようにも取れる。そんな微妙な立ち方にスピルバーグらしいバランス感覚と狡猾さを感じる。もちろんパニック映画としてのスリルはさすがという感じだから、宇宙人と人類という単純な構図を無批判に楽しめるならおもしろく見ることが出来るし、それはそれで映画を楽しむひとつの方法ではある。
しかし(もちろん私見に過ぎないが)そこにいくばくかの愛国心を忍び込ませ、かつ戦争に反対しているようにも見えるように作品を構成する。そのスピルバーグのずるさが私は嫌いだ。