サテリコン
2006/3/2
Satyricon
1969年,イタリア,128分
- 監督
- フェデリコ・フェリーニ
- 原作
- ペトロニオ・アルピトロ
- 脚本
- フェデリコ・フェリーニ
- ベルナルディーノ・ザッポーニ
- 撮影
- ジュゼッペ・ロトゥンノ
- 音楽
- ニーノ・ロータ
- 出演
- マーティン・ポッター
- ハイラム・ケラー
- サルヴォ・ランドーネ
- キャプシーヌ
- アラン・キュニー
- マックス・ボーン
ローマ帝国時代、愛する奴隷の美少年ギトーネを友人アシルトに取られた学生のエンコルピオは彼がアシルトが売り飛ばしたという役者のところにギトーネを取り戻しに行く。そして、それがアシルトとの決定的な別れとなり、エンコルピオは流浪の旅に出る…
ペトロニウスによって書かれたネロ期の堕落した古代ローマを描いた小説「サテリコン」の映画化。堕落したローマ時代を描く。
フェリーニの映画を見ると、頭を使う。この作品では、まず場面と場面との間にそれをつなぐようなものがないので、どうしても前のシーンとの関係性を考えながら見なければならず、ボーっと観ているわけには行かないのだ。その前までの流れや登場人物について考えながら、次のシーンを追って行くと、どこかでそれがつながり、関連性が見えてくる。そのあたりがフェリーニのうまいところで、映画に観客の集中力を向け続けるのである。
そして、主人公エンコルピオが旅するのに沿ってローマ世界の様々な側面が繰り広げられる。ローマでは当たり前のことでもあった男色、サウナでの酒池肉林の宴会、殺人、自殺、簒奪、などといった頽廃的な光景がそこに展開されるのだ。
観ていると、はっきり言って気持ち悪くなるようなものも多いし、そこに展開されるエゴと欲望の強烈さは目を背けたくなるようなものである。そして、コビト、セムシ、半陰陽といった人々がフリーク・ショー的に登場するのも気分が悪い。
しかし、そのような気分の悪さこそが頽廃であり、堕落であり、ローマ末期である。これらを頽廃と感じるのは、キリスト教的な道徳が生まれた以後のヨーロッパの視線であり、それはつまり現代の世界のほとんどが共有する視線である。宗教的な自律が生まれる以前の世界が頽廃的な世界であったということは、それが人間本来の性質であるということなのかと考えてしまう。しかし、このような頽廃が広がったのはローマ末期(いわゆるネロ期)に限られたことであり、それ以前はギリシャから続く哲学による自律が働いていたのではなかったのか。そう考えると、人間とはそもそも自らのエゴや欲望を哲学なり宗教なりといった思弁的なものによって自律するものなのではないかとも考えられるし、その箍が外れた時代がほとんどないことを考えるとそのほうが自然だとも思える。
しかし、人間は同時にエゴや欲望に流されやすい存在であり、常に自律と欲望の葛藤の中にある。そして、その葛藤は外部の力に影響されやすい。なぜならば、自律を働かせる意識ものは外部からの情報によって形作られるものだからだ。だから時代と場所によって人間の傾向は変化し、時に極端に退廃的な文化が生まれ、時に極端に禁欲的な文化が生まれるのだ。
この作品に描かれているのは極端に頽廃的(欲望が人間を支配する)文化である。だから、それを「気持ち悪い」と感じるのはそこに無意識の自律が働いているということなのだ。確かに映像は美しいが、その映像の美しさにもかかわらずこの世界を美しいとは思えないのは、この映画を見るわれわれの頭の中でそのような仕組みが働いているからなのだ。
ここに、フェリーニのすごさとオリジナリティを感じる。気持ち悪いにもかかわらず美しいというのはどこか居心地が悪いがひきつけられる魅力を持っている。背景を作り物じみたセットにすることで、奥行きをなくしまるで舞台のように作り込んだ映像の不思議な美しさ、不気味な空の色を背景とした空間の浮遊感、それらは現実離れした奇妙さがあるのだけれど、なぜか美しい。フェリーニがローマ時代にこだわる理由には、現代劇では実現できないような幻想的な風景を映像化できるということもあるのかもしれないとも思った。
場面の展開の仕方といい、映像といい、物語に頼らずに構成された映画の醍醐味が味わえる。