近松物語
2006/3/5
1954年,日本,102分
- 監督
- 溝口健二
- 原作
- 近松門左衛門
- 劇作
- 川口松太郎
- 脚本
- 依田義賢
- 撮影
- 宮川一夫
- 音楽
- 早坂文雄
- 出演
- 長谷川一夫
- 香川京子
- 南田洋子
- 進藤英太郎
- 小沢栄
- 菅井一郎
京都で宮中の経巻表装を一手に引き受け、暦の刊行も独占する大経師以春は町人ながら名字帯刀を許される権勢ぶり。その若い妻おさんは実家の兄からたびたび金を無心され、金に厳しい以春に言い出せなくなってしまう。仕方なくおさんは店一番の腕を持つ手代の茂兵衛に相談するのだが…
近松門左衛門の「大経師昔暦」を川口松太郎が「おさん茂兵衛」として劇化したものを依田義賢がシナリオ化し、溝口が監督、撮影は名カメラマン宮川一夫、音楽は早坂文雄と名手で固めて製作した傑作時代劇。
溝口の映画を観るとき、観客はそのドラマ空間に入り込み、その中の誰かの視線を借りてその空間を進んでいく。その感覚は小説を読みながら本の世界にどっぷりと使っているような感覚に近い。だから、溝口の映画は「いい映画」ではなく「おもしろい映画」だということが多くなる。
さて、ではこの映画では観客の視線はどのように導かれていくのだろうか。映画のはじめには、今書いたように茂兵衛とお玉に感情移入するように出来ている。では、そのどちらかが観客の視線を担うのだろうか。まず考えられるのは観客を茂兵衛の視線に導いて一人称的にドラマを見せるという方法である。それならば物語の展開はすっきりとわかりやすくはなる。しかし、どうもそうではないようだ。ふたりのどちらにより重点が置かれているかといえば、主人公であるそれは茂兵衛よりもむしろお玉のほうである。ドラマをよりドラマティックに演出するためには一人称的な狭い視線よりは三人称的な広い視線のほうが適している。そう考えると確かにお玉の視線から眺めたほうがうまく観客を引き込むことが出来るとは思う。しかし、実際はお玉でもない。そのことが明らかになるのはこの映画のひとつのクリティカルポイントとなるあるシーンである。そのシーンとは、茂兵衛がおさんから頼まれた銀五貫目を都合するために、白紙に主人の印判を押したものの、良心が咎めてそれを主人に告白するという場面である。ここでまず予想通りのすったもんだがあり、おさんが茂兵衛をかばって告白しようとしたその時、突然にお玉が登場し「私が茂兵衛に頼んだんです」と主人に告げるのだ。この唐突な展開にお玉の視線で眺めていたはずの観客はびっくりする。が、それは観客に対する裏切りでは決してない。ここで観客は突然に自分が同化していたのはそもそもお玉の視線ではなかったということに気づかされるだけなのだ。
ではいったい誰なのか、実は観客はここですでにお玉の突然の言葉で言いかけた告白を飲み込むおさんの視線に同化しているのだ。実は映画の最初からその視線はおさんの視線だった。茂兵衛とお玉に感情移入しているように見えるのも、おさんの彼らに対する同情的な視線をなぞっているからなのである。そして、そのおさんがこのクリティカルポイントとなるシーンでぐっと映画の前面に登場し、一気に物語を引っ張っていく存在となるとき、観客も勢いに乗って映画に没入していくのである。
もちろん、観客がこのように映画を観ているというのは、映画を見終わったあとに分析的に自分の視線を分析して明らかになることだ。映画を観ている間にはそのようなことにはまったく意識的ではない。それが意識的ではなく行われているからこそ観客は映画に没頭することが出来るわけだ。そして、そのように無意識的に観客の視線を操作し、どんどんと映画に引き込んでいく手法こそが溝口のスタイルなのである。
ところで、そのように溝口が観客の視線を導くとき、その対象はほとんどの場合に女性であるような気がする。あるいは、そうでなくても女性が非常に強い印象を残すことが多いような気がする。このあたりが、同じようにドラマティックな映画を撮る黒澤明とも大きく違う点かもしれない。黒澤の映画は多分に男臭い。三船敏郎を代表として、とにかく男臭く、女性の登場人物はあくまでもその引き立て役に過ぎない。そこで展開されるのはあくまでも男のロマンを追い求めるドラマであり、武士道やダンディズムがそこに匂う。
しかし、溝口のドラマは女性のドラマである。決して女性映画というわけではないのだが、男性の世界の中で生きる女性の姿を描いているような気がする。あるいは女性の視線から男の姿を描きなおしているというべきか。男のロマンをつく進むのではなく、女性の視線という少しずらした視線で男の世界を眺めてみる。そんな姿勢で物語が組み立てられているような気がするのだ。女性に導かれるようにして展開していく男の物語、そのような要素が溝口の映画にはあるのではないかなどとも考える。