日本侠客伝
2006/3/6
1966年,日本,95分
- 監督
- マキノ雅弘
- 脚本
- 笠原和夫
- 撮影
- 山岸長樹
- 音楽
- 菊池俊輔
- 出演
- 鶴田浩二
- 藤純子
- 岡田英次
- 大木実
- 三島ゆり子
- 木暮実千代
- 河野秋武
明治中頃の若松、吉田家の跡取りである磯吉は人望は厚いがお人よしで、ある日も、賭場で勝った金を船乗りの亭蔵にやり、自分はかち逃げをしたためにヤクザに追われる羽目に。そして、居候している料亭大吉楼にヤクザが押しかけ苦境に立たされる…
鶴田浩二主演のマキノ雅弘のヤクザもののひとつ。かたぎではあるが、仁義に生きる男磯吉のキャラクターが際立つ。
私はやくざものというのはあまり好きではないのだけれど、それはヤクザ映画の多くが結局は暴力と暴力の戦いに過ぎないからだ。確かにどちらかに仁義があって、正当性があるのだろうが、それでも結局物事を解決するのは暴力という発想にどうも納得がいかないのである。
マキノ雅弘のやくざものにももちろんそのような要素はある。やくざものはどこかで衝突し、殴り合い、殺し合いをするわけだ。この作品でも最後には殴り込みがあり、大立ち回りが演じられるわけで、その点ではやはり暴力と暴力の戦いになる。
しかし、この作品が少し違うのは、ヤクザとヤクザの戦いではなく、磯吉という一人の男が、ヤクザに生活を脅かされるカタギの人々のために命を懸けてヤクザに立ち向かって行くという物語であるという点だ。しかも、そのヤクザは政治家やらなにやらの権力者とつながっているから、これは結局、権力者対小市民の闘争という側面を持つようになる。
それによって、この物語はヤクザの世界という私たちとは関係のない世界の物語ではなく、私たち自身の物語にもなりうるのだ。もちろん、時代設定は明治であり、現在とは状況がまったく変わっているけれど、権力者対小市民という対立は根本的には変化しない。人々は小市民を代表して権力と戦ってくれるヒーローを常に求めているのだ。
だから、この物語は色あせない。マキノ雅弘はどの作品でも、このような普遍的な物語をその作品の物語の根幹に据えるので、次代をこえて楽しむことが出来る作品を作ることが出来た。この作品のようなヤクザものでも、江戸時代を舞台にした時代劇でも、捕物帖でもそれは同じである。
まあ、何を見ても同じということもいえなくはないが、娯楽映画というのはそのような安心感があるのもいい。マキノ雅弘の作品を見れば、とりあえず楽しめる。たとえそれがそれほど好きなジャンルの作品ではなくとも、それなりに楽しめるのだから、やはりすごいのだ。
私もヤクザ映画が好きになったというわけではないが、マキノのやくざものなら、何本か見てもいいかなと思う、そんな作品ではあった。そして、同じようなキャストで何度もくり返し作品を作るのも、そんな感覚を助ける。この作品はシリーズものではないが、マキノのやくざものにはシリーズものが多く、『日本侠客伝』『昭和残侠伝』などシリーズを見始めたら、ついつい次から次へと見てしまう感覚があるだろうことは、彼のシリーズものの名作『次郎長三国志』シリーズを見れば想像に難くない。