フェリーニのローマ
2006/3/7
Roma
1972年,イタリア,120分
- 監督
- フェデリコ・フェリーニ
- 脚本
- ベルナルディーノ・ザッポーニ
- フェデリコ・フェリーニ
- 撮影
- ジュゼッペ・ロトゥンノ
- 音楽
- ニーノ・ロータ
- 出演
- ピーター・ゴンザレス
- ブリッタ・バーンズ
- フィオナ・フローレンス
- アンナ・マニャーニ
- デニス・クリストファー
ローマから離れた田舎町の少年がローマへの憧れを膨らませ、そして戦争真っ只中のローマに出て行く。そのローマは喧騒に溢れ、下宿には変わった人たちが住んでいた。一方、現在のローマを撮影する撮影隊は、その頃とはすっかり変わってしまったローマを次々フィルムに収めて行く。
フェリーニ自身が始めてローマに出て行った30年代終わりのローマと、現代のローマを断章という形で重ねあわせ、時代とともに変化するローマの姿を描いたローマが主人公の自伝的作品。
この作品を見てまず印象的なのは、喧騒と静寂が交互に来るということだ。騒音とも思える音響が鳴り響くシーンと、シーンと静まり返ったシーン、これらが交互に繰り返される。そのリズムは、この作品の流れがローマという年の盛衰の流れを再現しているのではないかと思わせる。物語の終盤に作品の中でローマが何度も盛衰を繰り返してきたと語られるのを聞きながら、そんなことを思った。
繰り返される今と昔の対比、そこには常にノスタルジーが存在するが、同時にノスタルジーをこめて語られる“昔”が実は今とそれほど変わらないという諦念にも似たものも込められている。映画終盤の異様な協会ファッションショー、これが意味するものは果たして何か、教会の世俗化か、それとも逆に神秘化なのか。光に包まれた教皇を見て涙する人々が意味するのは、いったい何か。
この作品ではこの箇所以外でもくり返しカトリックへの言及がなされる。昔からカトリックの本山であったローマの歴史を語るのにカトリックへの言及は欠かせないものだが、果たしてそれが変わらないことを表しているのか、それとも変わっていることを表しているのかはよく分からない。
そんな流れの中でこの作品のハイライトといえるのは地下鉄の建設現場を撮影するシーンだろう。この地下鉄の建設はそのままローマの歴史をたどる旅である。八層に渡る地層から次から次に出土する遺跡がそれを暗示し、クルーがトロッコのようなものに乗って移動する途中のには昔(中世くらいか?)の人が「なんだ、地震か!?」と言って揺り起こされ、シャンデリアが天井から落ちようとするシーンがインサートされる。このシーンは時間が交錯する不思議な印象を与えるが、その短いインサートはその場所が記憶している歴史というモノを見事に象徴的に表現する。
そして、地下鉄建設に際して発見される地下の壁画とその消失は、この物語が持つ決定的なメッセージを審らかにする。その壁画が消え行くということは、過去とはまばゆく輝く儚い夢でしかないことを暗示しているのであると私は思う。儚い夢であるからこそ美しい過去、フェリーにはそれを否定はしないが、賛美もしない。夢は夢、今は今、夢は美しく現実は醜いが、同時に現実が色あせた夢の集積であることも事実である。生きるということはそのような夢と現実の間を行き来することであり、ローマにはその夢と現実が交錯しやすい場所である。
もちろんローマ以外にも長い歴史を持ち、多くの夢が過去として記憶されているそのような場所はたくさんある。そして、さらに個人のレベルで語るならば、一人一人がそのような場所を持っているに違いない。フェリーニにとってはそれがローマだというだけの話である。だから、この作品につけられた『フェリーニのローマ』という邦題はまったく正しい(題名をつけた人の意図は「フェリーニ監督によるローマという作品」という意味だろが、「フェリーニにとってのローマについての映画」と取ることも出来るという意味)。
フェリーにはそのような個人的に思い入れのある年の物語を語ることによって、それを見る観客一人一人の記憶を呼び起こし、そこにある種の普遍的な物語を提起しようとするのだ。それは人々のノスタルジーを刺激しつつも、ノスタルジーに逃げ込もうとする心をちくりと刺す、甘美でかつ苛立たしい非常に現実的なファンタジーである。