わたしを深く埋めて
2006/3/23
1963年,日本,95分
- 監督
- 井上梅次
- 原作
- ハロルド・Q・マルス
- 脚本
- 井上梅次
- 撮影
- 渡辺徹
- 音楽
- 伊部晴美
- 出演
- 若尾文子
- 田宮二郎
- 川崎敬三
- 江波杏子
- 村上不二夫
- 安部徹
弁護士の中部が予定を切り上げて九州から帰ってくると、マンションの部屋の鍵が開いていて、下着姿の女がいた。女が酔っ払って寝込んでしまったため、中部は女をタクシーに乗せて返すが、その後その女ミッチーの恋人だという男と、スキャンダルを撮りに来たという記者が現れる。彼らを追い返してようやく眠りにつくが、今度は警察に起こされる…
ハロルド・Q・マスルの原作を大映のサスペンス職人井上梅次が脚色し、監督。スピード感ある展開がスリル満点。
この映画の原作者ハロルド・Q・マスル(またはマスア)のことは知らなかったのだが、調べて見ると、現在も活躍しているアメリカのサスペンス作家で、自らも弁護士であることを生かして、弁護士探偵スコット・ジョーダンのシリーズものを書き、それで名を成した。この『わたしを深く埋めて』はそのスコット・ジョーダン・シリーズの第1作で、1947年に書かれている。
大映でサスペンスものを数多く撮っている井上梅次はもちろん国の内外を問わず映画の題材となる、あるいは映画のヒントとなるような小説をいろいろと読んでいただろうから、ハロルド・Q・マスルの作品に出会ったのも不思議ではない。
そして彼はその作品をまったく見事に映画にしている。犯人探しというサスペンスの原点ともいうべきプロットをじっくりと描き、観客が完全に中部の立場になって事件を追えるように視座が設定されている。中部が見聞きしたことを観客も見聞きし、逆に中部が知らないことは観客も知らされない。この徹底的な一人称の展開が推理小説を読む面白みをこの映画に与える。
遺産相続が絡んで、人々の欲望が錯綜し、誰もが動機を持ち、そして機会もある。そして、その展開の中で第2、第3の殺人が起きる。そのこんがらがった状況の中で、その糸を一つ一つほぐしていって理路整然としたひとつの説明を組み立て、犯人を突き止めるという推理小説の快感、それをこの映画は見事に再現しているんのだ。
しかしもちろん、それ以上ではないということも言える。これは別に映画を見なくても、原作を読めば同じという気もしてくる。この作品には映画独特のトリックというものは皆無である。映像と音という映画の特性を生かして、観客にヒントを与えるということはまったくと言っていいほどしない。ヒントは状況と人々のしゃべった言葉の中にあるのだ。だから、はっきり言ってこれを映画にする必然性はなかった。映画というよりは小説の映像化、おもしろいサスペンス小説を1時間半あまりという時間に閉じ込め楽しめるようにしたダイジェスト版なのだ。
もちろんそれでも楽しいのだからいい。1時間半という映画の時間を観客に楽しんでもらう、井上梅次は娯楽映画の職人監督として求められる、最低限にして最高の責務を果たしたのだ。
それにしても、この映画を見ながら思ったのは、若尾文子は若尾文子でしかなく、田宮二郎は田宮二郎でしかないということだ。彼らは昭和三十年代という日本映画の黄金時代を大映の役者として支えたスターであり、数多くの作品に出ている。しかし、そのどの作品を見ても、彼らは若尾文子であり、田宮二郎なのだ。劇中の人物を演じていながら、観客が彼らの上に構築したイメージから一歩も離れることはない。
ということは、彼らが出る作品は基本的に同じものなのではないか。そのことは大映で言えば、江波杏子にも、勝新太郎にも、山本富士子にも、市川雷蔵にも、船越英二にも、中村玉緒にも言えることだ。彼らのイメージの組み合わせと、プロットによって映画は組みあがり、観客はそれを楽しむ。たまに意外な役を演じることもあるが、それはひとつのイメージがあっての上の意外性である。当時の観客にとって彼らがそのように親しみのある存在であることに意味があった。そこに構築された世界に浸ることで観客は現実を忘れ、別世界を楽しむことができたからだ。
時間の経過とともに忘れ去られていくであろう平凡なこの作品からは、そんな時代の雰囲気が漂ってくるのだ。