ウーマン・ラブ・ウーマン
2006/3/27
If these walls could talk 2
2000年,アメリカ,96分
- 監督
- ジョン・アンダーソン
- マリサ・クーリッジ
- アン・ヘッシュ
- 脚本
- ジェーン・アンダーソン
- アン・ヘッシュ
- シルヴィア・シシェル
- 撮影
- ピーター・デミング
- ポール・エリオット
- ロビー・グリーンバーグ
- 音楽
- ベイジル・ポールドゥリス
- 出演
- ヴァネッサ・レッドグレーヴ
- マリアン・セルデス
- ポール・ジアマッティ
- ミシェル・ウィリアムズ
- クロエ・セヴィニー
- ナターシャ・リオン
- シャロン・ストーン
- エレン・デジュネレス
- レジーナ・キング
1961年、数十年をともに過ごしたレズビアンのカップル、そのひとりアビーが倒れ、イーディスが病院に運び込むが、親族ではないため会うことができない…
そのアビーとイーディスが暮らした同じ屋敷を舞台に、1972年、2000年とレズビアンを取り巻く環境が異なる3つの時代を生きた三組のカップルを描いたオムニバス作品。『キルトに綴る愛』などの脚本家ジョン・アンダーソンが監督した第一話が秀逸。
レズビアンが社会的にまったく認められていなかった1961年、ウーマンリブの流れの中で、徐々にレズビアンもその存在を主張するようになった1972年、そしてレズビアンの権利は認められたが偏見は根強く残り、決して完全に平等とはいえない2000年、それぞれの時代のレズビアンのカップルが抱えた悩みを描くことで、“愛”について語ろうとした作品といえば、この作品の狙いと意味がわかるだろうと思う。
中でも秀逸なのは、第一話、長年をともに過ごしたカップルが最愛の人をなくすが、相手のことを“親友”と説明することしかできず、病院でも親族にも理解されない。その悲しみは、レズビアンに限ったことではなく、誰もが経験する苛立ちといたたれなさであるが、レズビアンという今から見れば、不当に差別されていた人々についてそれを話題にすることで、その理不尽さが浮き彫りになる。
それを見る私たちは、愛する人を失ったイーディスの立場になるから、周囲人々の反応に怒り、イーディスに「反撃しろ」といいたくなるのだが、周囲の人々はイーディスたちがレズビアンであるから差別しているわけではなく、彼女たちが単なる親友であり、長年のルームメイトであると考えているだけなのだ。それは社会がそのような価値観の社会だったからであり、彼らの責任ではない。時代が生んだ不幸、そう一言で片付けてしまうのはあまりにずるいが、その時代が生んだ不幸から私たちは学び、同じ愛し合っていた人々の間にかくも重大な不平等が生まれてしまうのかということに心を痛めるべきなのだ。
そして、そのような社会の偏見あるいは無知は、差別される側の人々にも暗い影を落とす。それを描いたのが第2話である。大学の女性解放を訴えるレズビアン仲間の一人リンダが男装のレズビアン(いわゆる“ダイク”)エイミーに恋をする。しかし、それを他のレズビアン仲間は“男”に惚れることだと言って非難する。それは、「男女の性役割の撤廃」というウーマンリブのしそうに逆行する形であるから当然といえば当然だ。そのため、リンダはその恋に思い切って踏み出すことが出来ないわけだが、ここにあるのはレズビアンという社会内部の偏見である。性的解放による自由を求めているはずの人々が、一人の人間の価値観を否定するという矛盾、彼女たちはそのことに気づいていない。
しかし、それも時代性によって説明される。レズビアンではないウーマンリブのリーダーは彼女たちを排除しておきながら「時代が変われば…」と言い訳をしに来るのだが、彼女たちはもちろんそれに反発する。しかし、彼女たちはエイミーに対してそれと同じことをしているのだ。まずはレズビアンの権利を獲得することが重要であって、そのためには“ダイク”は障害になりうると。
リンダはエイミーに恋したことによって、自分自身がそのような偏狭な思想を持ち、想像力が欠如していたことに気づく。誰もが陥りがちな独善性の罠に気がつくのだ。
これらの偏見が現在は整理され、個人がそれぞれ自由な価値観を持って生きることが認められたように見える。同性愛、異性装、性同一性障害、などという言葉によって、それらは“違い”でしかなく、“異物”であったり“他者”ではないのだと主張される。
そのように変化した社会を第3話は描いているわけだが、本当は残っているはずの偏見や差別を描ききれてはいない。ただの幸せなレズビアンのカップルの話になってしまっていて、前2話で描かれた理不尽さが描かれていないのだ。
現代は本当に同性愛者にとっても異性愛者と同じように過ごせる社会なのか? お金があれば精子バンクから精子を買って子供をつくることが出来る。そんな恵まれた同性愛者だけを描いてどうなるというのか。彼女たちは自分の子どもが大人になる頃には、そんな差別もなくなると楽観的に語るが、決してそんなことはない。人々の間に根深く残る差別は成り行きに任せていてはなくならないのではないか。
この第3話は、レズビアンも異性愛者と同じように愛し合い、幸せを感じるのだということを描いてはいるのだろうが、第一話からどんどんトーンダウンしているという印象は否めない。
ちなみにこの作品、原題が“If these walls could talk 2”で、“2”とあるとおり、第2作で、第1作は妊娠と女性というテーマを3つの時代について描いた作品で、デミ・ムーアなどが出演。邦題は『スリーウイメン/この壁が話せたら』。DVDも発売されているようです。気に入った方は見てみてください。