崖
2006/3/30
Il Bidone
1955年,イタリア,110分
- 監督
- フェデリコ・フェリーニ
- 脚本
- フェデリコ・フェリーニ
- エンニオ・フライアーノ
- トゥリオ・ピネッリ
- 撮影
- オテッロ・マルテッリ
- 音楽
- ニーノ・ロータ
- 出演
- フロデリック・クロフォード
- リチャード・ベースハート
- フランコ・ファブリッツィ
- ジュリエッタ・マシーナ
- ロレッラ・デ・ルーカ
詐欺師のアウグストは仲間のピカソとホベルトとともに、農村を訪れ、埋めておいた贋物の宝石を掘り出すという詐欺をして小金を儲ける。画家志望のピカソは奥さんのイリスに行商の仕事だとうそをついてその儲けを渡す。
『青春群像』ののらくらたちがそのまま大人になったような詐欺師たちを描いた。フェリーニの出自ともいえるネオリアリスモの影響が強く感じられる作品。
詐欺師、それも農民やスラムに住む人々を騙すちっぽけな詐欺師の物語である。だから彼ら詐欺師たちも貧しい。主人公のアウグストはもう50歳近いのによれよれの身なりをして、一人で暮らしているらしい。相棒のピカソは画家志望だが、絵が売れそうな様子はまったくない。もう一人の相棒ホベルトはただのチンピラ、若いころののらくらがそのまま大人になって相変わらず無軌道な生活をしているという感じだ。
こういう貧しいもの同士の犯罪といってまず思い出されるのはヴィットリオ・デ・シーカ監督の『自転車泥棒』である。そのイメージからもわかるように、この時代のイタリアで貧しいものを描くとそこにはネオリアリスモのイメージが付きまとうようになる。この作品もその例に漏れない。とくにアウグストたちが公営住宅を種に詐欺を働くときに彼らが相手にする人々などはいかにもという感じである。
しかし、そのネオリアリスモ的ムードが映画全体を支配しているわけではない。すでにネオリアリストとは決別していたフェリーニは、リアリズムでは描けないものがあることに気づき、それを作品にしてきた。この作品でもその傾向は続き、リアリティの問題では片付けられないような表現を利用するようになっている。
まず、それが顕著に現れるのは大晦日のパーティーのシーンだ。これはアウグストの昔の仲間らしき男が今は金持ちになって(もちろん、何かの犯罪で金持ちになったわけだが)、偶然であったアウグストたちを大晦日のパーティに招待したというシーンである。ここでの乱痴気騒ぎは常軌を逸し、やってきた女のひとりを無理やり脱がせたり、新年を迎えた瞬間には、花火だけでなく本物の拳銃が撃たれたりする。しかも、その拳銃を撃つ男の目は血走っており、どう見ても麻薬をやっているとしか考えられないようなものだ。そこには、ピカソの妻イリスもやってきているから、ジュリエッタ・マシーナがまたしても薄幸な役で、その凶弾に倒れるのかという予感が一瞬頭をよぎるほどだ。
そのような現実と隔絶したようなシーンを織り込むことによって、フェリーニはネオリアリスモとの違いを鮮明にする。それはフェリーニらしさを出すことではあるが、同時にいまだネオリアリスモの傘の下にいる映画仲間たちからそっぽを向かれることでもある。実際、ネオリアリスムの中心人物の一人アリスタルコはこの作品について「好みの哲学と象徴主義に由来する十年一日のテーマ」とこき下ろしている。
そしてこの非ネオリアリスモ傾向はラストシーンにおいて最高潮に高まる。この作品の曖昧な結末(その直前のシーンで詐欺を働く相手を不憫に思ったかような描写があり、仲間に金を取ってこなかったと告げるが、実は独り占めしようとしていて、それが仲間にばれてぶちのめされる。そして、ボロボロになりながら助けを求めるアウグストの前を大きな柴を背負った女たちが通り過ぎ、アウグストはそこで途方にくれる。おそらく息を引き取る。そしてカメラは女たちを追う)はいったい何を意味しているのか。
ネオリアリスモなら、アウグストの死を因果応報的な悪人に罪が下るエピソードとして描くだろう。しかし、この作品では、なぜ最後にアウグストが金を独り占めしようとしたのかという点に疑問が残る。前を通り過ぎる女たちに声にならない声で助けを求めるアウグストの表情には何かためらいのようなものも感じられる。改悛するわけではないがしかし自分を正当化するわけでもない、微妙な心理がアウグストの心に浮かんでいた。
人生最後の瞬間をそのような思いで過ごしたアウグストの姿は物悲しく、しかしどこか感動的だ。アウグスト自身はそのような結末を予感していたのかもしれない、それで彼が赦され、救われるわけではないが。