マンハッタン
2006/3/31
Manhattan
1979年,アメリカ,96分
- 監督
- ウディ・アレン
- 脚本
- ウディ・アレン
- ジャック・ロリンズ
- 撮影
- ゴードン・ウィリス
- 音楽
- ジョージ・ガーシュウィン
- 出演
- ウディ・アレン
- ダイアン・キートン
- マリエル・ヘミングウェイ
- メリル・ストリープ
- アン・バーン
- マイケル・マーフィ
ニューヨーク、TVライターのアイザックが友人のエールとその妻、そして自分の恋人で17歳のトレーシーとレストランで食事をしている。2度の離婚を経験しているアイザックはトレーシーとの関係を恐れている。そんな中、エールが別の女性と恋愛関係にあるとアイザックにこっそり告げる…
マンハッタンを愛したウディ・アレンのマンハッタンへの賛歌。いつも通りのダメな中年男が主人公。
大人とは何か、愛とは何か、いつもはシャレで受け流すウディ・アレンがなぜかその疑問に答えているように見えるこの作品、ウディ・アレンの少女趣味は相変わらずで、自分を17際の少女とつき合わせるというのは悪趣味としか言いようがないが、その相手は文豪アーネスト・ヘミングウェイの孫娘マリエル・ヘミングウェイである。当時は本当に17歳、妙なところでリアリティを追求するウディ・アレンの性癖がここにも出たような気がするが、ウディ・アレン演じるアイザックは42歳にもなって結局この17歳の子娘に振り回されるのだ。ウディ・アレンにかかってはこの25歳という年齢さも無意味、盛んにトレーシーのことを子供子供というが、それは大人のほうが子供より偉いということでも、世の中を理解していることでもなんでもない。
そもそも、この42歳と17歳という設定は本当にそうなのか、映画の中で、アイザックは自分は戦争と戦争の間に生まれたという。舞台がリアルタイムの1979年、あるいは78年だとすると、これは計算があっているが、トレーシーはその時8歳だったという。これは明らかに計算が合わない。トレーシーの言っている戦争はベトナム戦争を意味しているのだろうか。このことに別にたいした意味はないだろうと思うが、なんだかウディ・アレンにだまされているような気になる。
それはさておき、大人についてだが、アイザックはメリーを知識ばかりを集める脳みそ人間と言ってバカにするが、一般的に大人と子供の違いというのは、脳みそにあるのである。つまり、アイザックはトレーシーを子供子供といいながら、同時にメリーに対しては自分が子供であることを主張し、しかも子供であることをよしとしているのだ。
ここで見えてくるのは、「子供であれ」ということである。この物語は結局、みなが自分の心に素直になり、自分の心が「これが愛だ」と語りかけてくるものを選択するという結末を迎える。子供の心になって、自分に素直になって、愛する人のところに走れと素直に語りかけてくるのだ。
それはなんだか、すごくストレートでグッと来るメッセージだ。ウディ・アレンはなんだかいつもコンプレックスを抱えて、物事をまっすぐ描くことをしないと思っていたのだが、こんな風にまっすぐに表現することもするのだと驚いた。
この作品も表面上は人を煙にまくような様々なエピソードがちりばめられ、他の作品と変わらないように見えなくもないのだが、最後にしっかりとオチをつけて、メッセージをわかりやすくしているのだ。もしかしたら他の作品も同じようにメッセージが込められているのかもしれないし、あるいは観る側の見方の問題に過ぎないのかもしれないが、ウディ・アレンの違う一面を見たような気がしたのだ。
スタイリッシュという言葉で表現されるウディ・アレンの映画はわかりにくいのか、それとも中身がないのか。「ウディ・アレンの映画」と人くくりにして考えるにはあまりに多岐にわたっているわけだが、それらが「ウディ・アレンの映画」でありうる基盤となるものが、この『マンハッタン』の中に比較的わかりやすく現れている。そういうことなのかもしれない。