甘い生活
2006/4/7
La Dolce Vita
1959年,イタリア,185分
- 監督
- フェデリコ・フェリーニ
- 脚本
- フェデリコ・フェリーニ
- エンニオ・フライアーノ
- トゥリオ・ピネッリ
- ブルネッロ・ロンディ
- 撮影
- オテッロ・マルテッリ
- 音楽
- ニーノ・ロータ
- 出演
- マルチェロ・マストロヤンニ
- アニタ・エクバーグ
- アヌーク・エーメ
- バーバラ・スティール
- ナディア・グレイ
- ラウラ・ベッティ
キリスト像を吊り下げるヘリコプターを撮影するヘリに乗ったジャーナリストのマルチェロ、今度はナイトクラブで富豪の娘マッダレーナに出会い、記者仲間のフラッシュを避けて車でどこかへと向かう…
プレイボーイのマルチェロの行動を追っただけかのように見える散漫なドラマだが、そこからフェリーにらしい情感と辛辣さが滲み出す名作。
これは非常に不思議な映画だ。魅力的であるにもかかわらず、なんだか眠い。それは観客をグッとひきつける魅力があるにもかかわらず全体的に見ると非常に散漫な印象があるからであり、それはフェリーニの多くの作品に言えることでもある。
なぜフェリーニの作品にはそのような印象を受けるのか。この作品を見ながら、それは全て「脈略のなさ」から来ているのだとわかる。この作品のプロットの運び方はとにかく脈絡がない。冒頭でキリスト像をヘリコプターで運んでいるのも脈略がないが、それに続くエピソードの連続にもまったく脈略がない。最初のエピソードはマルチェロと富豪の娘マッダレーナとの情事のエピソードだが、観客にはマッダレーナが何者であり、マルチェロとどのような関係にあるのかはまったく説明されず、ふたりが車に乗って出かける理由も行き先もまったくほのめかされもしない。
そのような印象はエピソードが次から次に連なるにつれてどんどん強くなる。まったく関係のないエピソードがただ並べられている、そんな印象を受けるのだ。しかし同時に、観客はエピソードの移り変わりの意味を想像してもしまう。唐突な場面変換は、その前後の2つの場面に何らかのつながりがあることを示唆しているはずだ。最初は関係ないように見えるものが、どこかでつながる。そのように想像しながら見て行くものなのだ。
だから、フェリーニの作品もそのように見られる。そこにあるはずのつながりを探すというある種のサスペンスを体験しながら観客は映画を追って行くのである。しかし、この映画ではそのつながりはあまりに希薄であり、最後までこれがひとつの大きな物語であるとは感じられない。それが全体的な散漫さにつながるのである。
そしてこの脈略のなさ全体のみにいえることではない。ハリウッド女優シルビアに対するインタビューの脈略のなさはこの映画と呼応しあっているようだ。
この散漫な印象というのはどこか夢にいている。断片的で全体的なつながりは見えないが、しかし魅力的。だとすると、これはマルチェロの白日夢なのかもしれない。ローマという喧騒のゆりかごに揺られた赤子が見る夢、大人になりきれない男であるマルチェロがみる儚い夢、そのような印象を強く感じる。
たとえば、それはマルチェロがシルビアを追って長い長い階段を上って行くシーン、マルチェロがシルビアに追いつく直前、マルチェロの視界が一瞬揺らぎ、そして鐘が鳴る。この一瞬にはどこか夢の世界へと入って行く瞬間をイメージさせるものがある。果たしてこれから以後に起こったことは現実なのか、マルチェロの幻想なのか。この夢はクラブのようなところでマルチェロがシルビアと踊っていたところにアメリカ人の俳優が闖入してくることで冷めてしまう。
フェリーニの映画で繰り返される奇跡と群集と熱狂、これは間違いなく群集心理による集団幻想を示唆している。マルチェロはその幻想に与しないが、その幻想を無視しはしない。
突然現れる父親はキャバレーで展開される見世物小屋的な出し物とあいまって子供時代を暗示する。そこに感じられるのは、過去と現在の断絶、どこか夢のように思える記憶の中の過去の世界ではないか。
そして海辺のペンションで出会う少女、最後に再会を果たす少女の声がマルチェロに届かないというのも夢のようであり、なおかつ一番最初のシーンと呼応してもいる。また、海で始まり海で終わるというのも『道』でも見られたフェリーニのスタイルである。
そして、これらが全て夢だとしたら、この登場人物は何かを象徴しているはずである。フロイトやラカンを持ち出すまでもなく、夢というのは現実の何かを象徴しているのである。そこには現実の欲望が象徴として表れ、現実では果たせない欲望の実現がなされる。
マルチェロの、つまりフェリーニの欲望とはいったいなんなのだろうか。この物語に登場する女たちはいったい何を象徴しているのだろうか。
誤解を恐れずに言えば、その欲望とは猥雑なローマという都市とのセックスである。妖艶な、グラマーな、清純な女へと次々と姿を変えて現れるローマという都市、マルチェロ=フェリーニはそのローマを欲し、それを手に入れようともがいているのである。
その欲望はずっと変わらない。『青春群像』も、この『甘い生活』も、もちろん『フェリーニのローマ』も、このようなローマへの欲望を描いたものに他ならない。だからフェリーニの映画はいつも同じといえば同じ映画であり、成長していないといえば成長していないのだ。しかし、生々しい欲望の発露としての映像はわれわれを魅了してやまない。フェリーニの作品が年を経るごとにより猥雑でより複雑になって行くのは、フェリーニのローマへの想いがより深く複雑になっていったからではないか。
私はこう思う、フェリーニは映画を作りたかったわけではなく、ただローマを描きたかったのだ。彼はその欲望と幻想をそのままフィルムに焼き付けたから私たちの幻想に火をつけるのだ。