UFO少年アブドラジャン
2006/4/11
Abdulladzhan, Ili Posvyashayestya Stivenu Spilbergu
1992年,ウズベキスタン,88分
- 監督
- ズリフィカール・ムサコフ
- 脚本
- ズリフィカール・ムサコフ
- リフシヴォイ・ムハメージャノフ
- 撮影
- タリアト・マンスーロフ
- 音楽
- ウリマスホン・テミロワ
- 出演
- ラジャブ・アダシェフ
- トゥイチ・アリボフ
- シュフラト・カユモフ
- トゥチ・ユスポワ
ソ連時代のウズベキスタンの片田舎のコミューンの集会で議長がモスクワからの電報を読み上げた。その内容は村に未確認飛行物体が向かっており、宇宙人がやってくるというもの。村人はわけがわからなかったが、その一人バザルバイは迷子の牛を探していたときに、爆発音を聞く…
風変わりな作品が多い旧ソ連のSFの中でもさらに個性的なウズベキスタンのSF映画。ゆるいコメディだが、どこか寂しい味わいがマニア受けする。
旧ソ連の風変わりなSFコメディといえば『不思議惑星キン・ザ・ザ』という名作(?)があるが、それに限らず旧ソ連のSFには風変わりなものが多い。それは単に映画の話だけではなく、小説においても旧ソ連のSFというのは西欧圏とは別個の発展を遂げ、独特の雰囲気を持つ作品が生まれてきた。例えばストルガツキイ兄弟などがその代表だが、とにかく旧ソ連のSFというのは私たちの目から見るとかなり風変わりなのである。
そしてこの作品はその中でもさらに一風変わっている。モスクワから「異星人がやってくる」という電報が送られてくるというまったくわけのわからないはじまり方をして、しかもその異星人というのがモスクワからの情報とまったく違う姿かたちをしているのだ。そして、その異星人アブドラジャンが巻き起こす騒動も、私たちが想像するエイリアンものとは大きくかけ離れたものである。
この映画は一番最初の導入で語り手がスティーヴン・スピルバーグ監督の『ET』をみたと語り、そのスピルバーグに向かって語りかける形で展開される。しかも語り手はスピルバーグのことをスティーブンと呼ぶ。これはある見方ではハリウッド型のSFとソ連型のSFとを対比していると観ることもできるだろうが、このスティーブンという語りかけはなんだか間が抜けていて、アメリカ人のそこら辺のおっさんに対して語りかけているようにしか聞こえない。
この村の人々はエイリアンがエイリアンであるということを完全に無視し、誰がエイリアンであるのかとか、様々な異常な現象の原因はどこにあるのかなどということを追求しようとは決してしない。起きたことをただ受け入れ、議長がやったことだという噂が流布すれば、それを信じて議長を称える。このゆるく、不思議な、しかしなんだかおもしろい空気は何なのか。
私はここにエイリアンに対する根本的な態度の違いがあるのではないかと思う。ハリウッド映画である『ET』では、大人たちはエイリアンでETを発見し研究することを目指した。ここではエイリアン探しとは異物を探すことであり、受け入れるかどうか以前にまず他者として捉えるという態度がある。これに対してこの『アブドラジャン』では人々はエイリアン探しをほとんどしない。アブドラジャンは金髪ということで異物と認識されて入るのだけれど、村人たちはそれを完全に無視する。彼らはとりあえず受け入れてしまうので、彼らは絶対にエイリアンを発見することができない。エイリアンとは他者であり、彼らの態度においては他者なるものは存在しないからである。それは、語り手やバザルバイが牛を人と同じように扱っていることからもわかることだ。
このあたりの感覚のズレがこの作品の奇妙さの根底にあるのだと思うが、果たしてこれを面白いと思えるかどうかは観る人によるだろう。なぜならエイリアンがまず他者として現れ、それを受け入れるかどうかという形でドラマを展開していったほうがわかりやすいし、スリリングになるが、これに対して、いきなりエイリアンを受け入れてしまうと、問題の所在が曖昧になって、いったい何を目指して物語が展開しているのかわからなくなってしまうからだ。
そのような曖昧な物語は観る人を選ぶ。そのような曖昧な物語は言葉で理解できず、感覚的にそれをつかむしかないのだが、観る側にその物語と呼応するような何らかの体験なり考え方なりがないと、それをつかむことができないからだ。ソ連時代のウズベキスタンの人々(ソ連という社会主義国家においてイスラム教という宗教を実践していた人々でもある)に限ればその感覚は多くに共有されるものだったのだろうが、時代も場所も価値観も違う世界に生きる人々がそれを共有するのは難しい。
しかし、私がこのような作品に出会っていつも思うのは、このようなまったく違う価値観を感覚的に捉えるために必要なのは想像力であり、このような作品がそんな想像力を培ってくれるということだ。自分とはまったく違う人、自分はまったく知らない世界について想像すること、このような映画はその想像する作業を助けてくれる。そして、そうして想像することによって私たちは寄り広い視野とより鋭敏な感性とより大きな寛容性を身につけることができる。
そしてそのような“他者への想像力”を身につけることによって、私たちは誤解や衝突や抗争を避けることができる。大げさに言えば、このようなまったく違う価値観を持つ作品を観て、それを感覚的にとらえようとすることは世界平和への第一歩なのだ。