サンダカン八番娼館 望郷
2006/4/23
1974年,日本,121分
- 監督
- 熊井啓
- 原作
- 山崎朋子
- 脚本
- 廣澤栄
- 熊井啓
- 撮影
- 金宇満司
- 音楽
- 伊福部昭
- 出演
- 栗原小巻
- 田中絹代
- 高橋洋子
- 田中健
- 水の江滝子
ボルネオのサンダカンを訪れた三谷圭子はかつて八番娼館と呼ばれる建物があった場所に行き、案内人に話を始める。彼女はいわゆる「からゆきさん」について調べるために訪れた天草で偶然出会ったおサキさんという元からゆきさんの家をあらためて訪ね、徐々に話を引き出して行った…
原作は作家・山口朋子がこの映画の三谷圭子と同じように、自分の身分を告げずにからゆきさんと一緒に生活し聞き取った話を文章化したもの。田中絹代、栗原小巻、高橋洋子という3世代の女優の共演が見事。
まずこの映画が面白いというか珍しいという感じがするのは、それが3つの時間を二重の語りによって表現しているというところである。まずは現在の時間、圭子がサンダカンに赴き、八番娼館の跡などを訪ねるなかで、その案内をしてくれる現地の日本人におサキさんの話をする。その語りが引き金となって第2の時間が始まる。その時間ではまず圭子が“からゆきさん”について調べるために島原を訪ね、偶然おサキさんに出会う。そして、ゆっくりとおサキさんと親しくなって行く中でようやく昔の話しを引き出して行くのだ。そして、そのおサキさんの昔語りは第3の時間を物語る。それは大正の昔、貧しい島原の村落に生まれたおサキさんがまだ少女の頃、母親の再婚などによって外国に出稼ぎに行くことを余儀なくされるという物語である。ここに来てこの映画はようやく本題とも言うべき話に入るわけだが、この3つの時間はどれもが映画の中にたびたび登場し、観客の目からは平行して起こっている出来事のように見える。2つの時間軸が存在するという映画はよくあるが、3つというのは珍しい。そして、この映画はその3つの時間軸をうまく使って、物語に面白みを出している。
映画のメインとなるのはおサキさんがサンダカンで過ごした時代なわけだが、なかなかその時代の話に入っていかないから、どうしても圭子がいかにおサキさんから話を聞きだすのかというところにまず目が行く。そして、その聞き出し方はイタビュアーあるいは調査する研究者の態度としては危険なもののように映る。自分が調査しているという事実を明かさずに、おサキさんの生活に入り込み、親しくなって自然に話を聞きだそうというのだ。おサキさんは圭子の素性を聞こうとはせず、最初は昔の話を避けるようにしていたが、親しくなり、圭子が昔の話を聞きたいというと、話すようになる。観客にはおサキさんは圭子がその話を聞くために自分のそばに居るのだということに気づいているのだろうとわかるように出来ていると思うが、それでもやはり(あるいはだからなおさら)圭子の態度には納得できないものがある。親しくなったおサキさんに対する誠実さに欠けているし、研究者としても問題があると思うのだ。
映画の終盤、東京にかえるという段になって圭子はおサキさんをだましていたことを告白し、許しを請う。おサキさんはもちろんなんとなく気づいていたということをつげ、彼女を許す。しかし、おサキさんにしてみれば彼女を許すしかないし、それでこの圭子のやり方の問題点が免罪されるわけではない。そして、そのことをこの物語の中に盛り込んだこと自体が言い訳がましく聞こえる。これはいわば裏口から入って正面玄関から出るようなもので、そう簡単に正当化できるとは思えないのだ。
おそらくこのエピソードは原作のままなのだろうと思う。この原作を書いた山崎朋子は小説家ということだから、そのあたりの厳密さは強く意識しなかったのだろうと思うが、私にはどうも引っかかってしまう。
しかし、まあこの映画自体はフィクションとして作られているわけだがら、そう目くじらを立てることもないのかもしれない。映画を楽しもうとするならば、おサキさんによって語られる物語おじっくりと味わうほうが先決なのだから。そして、そのおサキさんのサンダカン時代を演じる高橋洋子がなかなかいい。現代の時間で主人公となる田中絹代と栗原小巻と比べると高橋葉子というのは女優としては印象が薄いが、しかしこの映画では強い存在感を持っている。とくに表情がすばらしい。特にそれを感じるのは14歳でサンダカンに渡り、15歳から客をとるようになったおサキが初めて恋のようなものを感じた竹内との出会いのシーンである。最初に客として竹内を扱うときの表情、昔話をして似たような境遇にあることを知ったときの表情、お金がないと言って帰ろうとする竹内にすがり、泊まって行ってくれというときの表情。このひとつのシーンで変化する様々な表情は言葉以上におサキが経験してきたことの凄烈さを伝え、彼女の心の渇きを伝える。田中絹代の演技もさすがという感じがするが、この映画でもっとも美しいのは、このおサキと竹内の出会いのシーンではないだろうか。竹内を演じる田中健はこれがデビュー作だが、みずみずしい存在感があっていいと思う。
このシーンは非常に印象的だが、それ以外のシーンでは高橋洋子は今ひとつ印象を残さない。娼婦仲間たちの間に混じると主人公らしい輝きは特に見られず、どれがおサキなのかを一瞬探さなければならないほどだ。その意味では田中絹代はさすがの大女優で、登場するシーンではいつでも強い印象を残す。その仕草はまさに苦労を続けてきたが、教育を受けることは出来ず、辛酸をなめてきた女性のものである。そのような女性がどのような感じなのかということを思い浮かべた姿を演じているというよりは、田中絹代のその演技を見て初めておサキさんは実際にそうだったのだろうという思いに囚われるのだ。それはあるひとつのイメージを演じるのではなく、演じることによって一人の人物を生み出すこと、だからこそただいるだけでも強い存在感があるのだ。
しかし、その田中絹代の映像にはどこか奇妙なものを感じる。おそらくライティングのせいだと思うが、田中絹代をクロースアップで捉えたときに、彼女の顔は妙にてかてかと光る。黄土色に日焼けした肌に浮く脂が光を反射したかのように鈍く光るのだ。これはリアリズム的な演出なのか、それとも奇妙さによって映画にアクセントを加えるものなのかはわからないが、とにかくなんともいえぬ違和感を感じるのだ。特に圭子を演じる栗原小巻と向き合って話している時に、クロースアップのカットバックで二人の顔が交互に映ると、田中絹代の顔ばかりに光が当たっていて、それがおかしい。それはつまりどこか作り物じみているということで、そのような作り物じみた印象はこの田中絹代の顔色にとどまらず、様々なところに散見できる。
その最たるものは、サンダカンのパートで港に軍艦が着いたと言って、海軍の若い兵隊たちが行進してくるシーンである。パッと見では普通の軍隊の行進となんら変わりはないのだが、俯瞰で撮られたその行進はどこか奇妙なものがあるという印象をどうしても受けてしまう。そして、その行進はいつの間にか娼館へと殺到する無秩序な人の波へと変わる。
この行進や田中絹代の表情の奇妙さというものがいったい何なのかと考えてみると、それはこれらの映像が凄く劇画的であるということだ。つまり、表現が大げさで現実的ではないように感じるのだ。映像としては細部が強調されて様式化され、全体が強いイメージを表現するようになっている。それは日本に帰ってきたおサキがお風呂に入っているというシーンでも同様だ。リアリズムで捉えられているようでいながら、どこか誇張された劇画的なイメージを持つ。
このリアリズムとフィクションのせめぎあいというのもこの映画のひとつのテーマといえるのかもしれない。原作はノンフィクションであり、映画の形式としてもノンフィクション的な作り方になっているが、もちろんすべてが役者に演じられたフィクションであって、そこにはノンフィクションの要素は一切ない(もしかしたら映画の最後に登場するサンダカンの娼婦たちの墓は本物かもしれないが)。しかし、どこかでこのことが事実だったという意識も見る側に存在し、それがリアリティを補完する。
だからこれは非常に不思議な映画だ。中途半端ともいえるが、不思議な魅力があるともいえる。