ブロークン・フラワーズ
2006/4/25
Broken Flowers
2005年,アメリカ,106分
- 監督
- ジム・ジャームッシュ
- 脚本
- ジム・ジャームッシュ
- 撮影
- フレデリック・エルムズ
- 音楽
- ムラトゥ・アスタチェ
- 出演
- ビル・マーレイ
- ジェフリー・ライト
- シャロン・ストーン
- フランセス・コンロイ
- ジェシカ・ラング
- ティルダ・スィントン
- ジュリー・デルピー
- クロエ・セヴィニー
若い頃はドン・ファンでならし、いまはITで一山当てて気ままな生活を送るドンだったが、恋人のシェリーが家を出て行ってしまう。その時ちょうど届いたピンクの手紙には「あなたの息子を育ててきた」という告白が。ドンはおせっかいな隣人のウィンストンにその手紙を見せるが…
初期の作品を髣髴とさせるようなロード・ムービーでジャームッシュのオフ・ビートは健在であることを示した。
初期のジャームッシュ作品のおもしろさはひとつには「よくわからない」ところにあった。物語の行き着く先もわからなければ、会話の合間に生じる「間」に込められた意味もわからなかった。そして、物語の行きつく先がわからないのは、その物語を引っ張って行くはずの当の主人公たち自身が自分自身が向かっている先がわからないからであり、会話の合間に生じる「間」に込められた意味がわからないのは、その「間」とはいかようにもかいしゃくできるものとしてそこに置かれていたからだ。
そしてその「よくわからない」部分がおもしろさでもあった。そのわからなさがもつなんと話しの格好よさと観る人それぞれが勝手に解釈していい自由度が人気を集め、それぞれ勝手に解釈した若い観客たちは、そこに映っているのが「自分の分身」であると感じたのだ。
ジャームッシュはそのような自分のやり方をここ2作で取り戻したように見える。前作の『コーヒー&シガレッツ』では11ほんの短編によって様々な人々を描いたが、この作品ではその観客の分身は完全におじさんになってしまった。
そして、この物語の行き着く先はやはりわからない。「あなたには実は息子がいて19歳になる」という手紙を受け取った元ドン・ファン、隣人に促されてその頃の恋人たちのもとを訪ね歩くその男ドン・ジョンストン。そのたびにはいろいろなことがおき、それぞれの恋人はそれぞれの人生を送っている。そしてそのそれぞれにおいておかしなことが起き、それに輪をかけて隣人のウィンストンがおかしいのだけれど、それはあくまでそれだけのことであり、そこから教訓が引き出されたり、心温まる物語が隠されていたりということはまったくない。
しかしそこには“息子”という答えに対する謎解きのスリルがあり、ちりばめられたギャグがある。そこには相変わらず気まずい「間」があり、相手の考えていることが結局は理解できず、常に謎は残り続ける。そして、謎はその「息子探し」ということだけにとどまらず、「なぜドンはいつも同じジャージを着ているのか」とか(これが実は最後で効いてくるのだが、それでもそれにどんな意味があるのかはわからない)、「なぜひとつの場所から別の場所に移動するとき必ずトラックとすれ違うのか」とか、別になくてもいいはずの謎が残される。特にトラックとすれ違うというのは、みなが気づくわけではないと思うし、トラックが何かを象徴しているというわけでもないだろうと思うが、明らかに意識的に毎回トラックを登場させているのだ。
これを「わけがわからない」と片付けることはもちろん簡単だ。しかし、わけがわからないことで途方に暮れているドンに私たちは何かを感じてしまう。解釈のために大きく残された余地を通じて、自分の何かを彼の中に読み取ってしまうのだ。初期の作品が若者のそのような心理を描いていたのに対して、この作品では中年に差し掛かった男の心理を描いているわけだが、おもしろいのは、結局その二つに大きな違いはないという点だ。ドンは様々な経験を積んできた大人だが、やはりどこか途方にくれていて、人生に確信がない。そしてこの「人生に確信がない」ということこそ、私たちみなが共通して抱えている「わからなさ」なのではないか。あるいは、そのような「わからなさ」を抱えて生きている人なら、この映画に何かを感じ、そこにおもしろさを見出すことができるのだということだろう。