ホテル・ルワンダ
2006/5/2
Hotel Rwanda
2004年,イギリス=イタリア=南アフリカ,122分
- 監督
- テリー・ジョージ
- 脚本
- テリー・ジョージ
- ケア・ピアソン
- 撮影
- ロベール・フレース
- 音楽
- ルパート・グレグソン=ウィリアムズ
- アンドレア・ゲーラ
- 出演
- ドン・チードル
ソフィー・オコネドー
- ニック・ノルティ
- ホアキン・フェニックス
- デズモンド・デュベ
- ファナ・モコエナ
- ジャン・レノ
1994年のルワンダ、フツ族とツチ族の対立は和平協定によって収束しようとしており、首都キガリのホテル“ミル・コリン”の支配人ポールもお偉方に賄賂を贈ったりしながら、ツチ族の妻と暮らしていた。しかし、大統領の暗殺から事態は急展開を見せる。
1994年のルワンダ大虐殺の際にあった実話の映画化。日本では公開の予定がなかったが、署名活動などにより公開が実現した。
ルワンダ大虐殺、大分昔にニュースでは聞いたけれど、現実感を伴わず記憶の底に忘れ去られていたその言葉がこの映画で蘇る。それも、凄まじい現実感を伴って。
内戦状態にはあっても何とか人々は生活を続けていたルワンダ、しかし悲劇は突然訪れる。過激化した多数はフツ族の民兵がツチ族の大虐殺をはじめるのだ。歴史で何度も繰り返されてきた突然隣人が敵と化し、銃を向ける(ここでは鉈だが)という行為がここでも繰り返される。この映画では冒頭に旧ユーゴに関するニュースが音声のみで流れ、ユーゴスラビアで起きたこととルワンダで起きたことの類似性が浮かび上がる。人種という名の線引きが人々を狂気に駆り立て、未曾有の死者がそこから生まれる。
人と人とがどうしてそこまで憎しみあい、残虐になることができるのか、そのような感覚の喪失はどこで起きるのか。
そこに存在するのは常にメディアである。ポールが民兵たちと異なっているのは、彼が生身でツチ族の人たちと付き合っているのに対して、民兵たちはツチ族というレッテル/メディアを通してしか彼らと接していないという点だ。彼らはツチ族の人々を憎悪しているのではなく、ツチ族という名前を憎悪しているだけなのだ。
この問題の根本には植民地支配を行ったベルギー人による意図的な線引きがあるということが序盤で示唆され、そもそもの原因である彼ら西欧人が結局ルワンダの人々を見捨てることに非難の矛先を向けている。もちろん、それは大きな問題だし、非難されてしかるべきものだ。しかし、本当の問題はもっと深いところにある。それは人々が“言葉”によって自分と他人の間に線を引き、最終的には殺すこともいとわなくなってしまうという事実だ。ベルギー人たちは、そのようにすることで人が対立し憎しみあうという事実を利用したに過ぎないのだ。
それはどこでも起こりうる。たとえば、今の日本で韓国人と北朝鮮人がどのように見られているか考えてみればいい。韓国人も北朝鮮人も歴史的にはまったく代わらない人々であるはずだ。ただこの50年ほどを異なった国家体制の下で暮らしているというだけのことなのに、それが決定的な違いであるかのように捉えられてしまう。
そして、そのような悲劇の根本にあるのは常に“恐怖”である。恐怖が人々を支配し、人々は憎しみにそのはけ口を見出す。恐怖の元になったものをでっち上げ、それに対して憎しみの目を向けるのだ。憎しみが生まれれば殺人までの道のりは短い。ポールが銃口を向けられて隣人であるツチ族の人々を撃てといわれた時、彼が冷静でなく、自分がこのような恐怖に襲われている原因がここにいるツチ族たちなのだと考えてしまっとしたら、彼は容易に引き金を引き、隣人の一人を殺しただろう。もしそうしたら彼が復讐される恐怖から次々とツチ族の人々を殺すようになるのにそう時間はかからないかもしれない。恐怖と憎しみの連鎖はそのようにして次々と殺戮を産む。
しかし彼はそうしなかった、彼は恐怖に打ち克ち、人間性を取り戻した。そして、彼はその後も次から次へと恐怖に襲われ、それと戦う。この物語は結局ポールの中における人間性と恐怖との戦いの物語であるのだと私は思う。
その戦いとはつまり、「暴力」と「寛容」の、あるいは「収奪」と「思いやり」の戦いでもあるといいたい。「暴力」によって世界を「収奪」してきた西欧の国々がまいた種が生み続ける無数の戦い、私たちはそれをテロや空爆によってではなく、「寛容」と「思いやり」によって解決していかなければならないのだ。憎み、対立するのではなく、赦し、包み込むことができれば私たちは戦いを避けられる。
もちろんこれは、一方的な視点から見た“物語”であり、スピルバーグの『シンドラーのリスト』と同じようにそのまま鵜呑みにしていい内容の話ではない。しかし、このような映画が作られることによって、少なくとも私たちは「ルワンダ大虐殺」という悲劇が実際に起きたということをくり返し思い出すことができる。特に、ルワンダの人々はユダヤ人や旧ユーゴの人々の人々のようには自分たちの悲劇を世界に向かって発信するメディアを持っていないから、これが欧米の人々によって創られたものであっても、非常な意味があるのだ。
映画ができることなど限られているし、多くの害悪も垂れ流して入るけれど、言葉を持たないサバルタンたちに代わって彼らの言葉のほんの一部でも世界に向かって発信することができるのなら、巨大な映画産業が行っている様々な不正もいくばくかは雪がれるのではないか。そのような映画が積み重なって、数十年がたち、この映画を見た人々が「こんなことが本当にあったなんて信じられない」と思える平和な世の中が来ていることをただただ祈るだけだ。
最後にひとつ。ポールの妻を演じたソフィー・オコネドーがとてもよかった。この人はイギリスの女優で、これはではいくつかの映画に脇役として出演したり、TVドラマに出演したりしているだけだが、きっとこれからいい女優さんになると思う。近作では『イーオン・フラックス』に出演、映画はつまらなそうだが…