わが生涯のかゞやける日
2006/5/11
1948年,日本101分
- 監督
- 吉村公三郎
- 脚本
- 新藤兼人
- 撮影
- 生方敏夫
- 音楽
- 木下忠司
- 出演
- 森雅之
- 山口淑子
- 滝沢修
- 宇野重吉
- 加藤嘉
- 殿山泰治
終戦前夜、陸軍中尉だった沼崎は上層部の命に従ってポツダム宣言受諾を主張する重臣・戸田を暗殺、そこに居合わせた娘に腕を刺される。3年後、キャバレーの用心棒に落ちぶれた沼崎はモヒ中毒となり、ボスの佐川のいいなりになっていた。そこに戸田の娘が踊り子としてやってくる…
終戦からわずか3年後の日本、戦争の傷跡と新しい日本への希望を描いた力作。戦中は中国人に扮し李香蘭として知られた山口淑子が本格的にスクリーンに復帰した作品でもある。
この作品の印象はまずややこしく、そして暗いということだ。主人公は沼崎という男だが、彼の周囲にはさまざまな因縁や策謀が持ち上がり、それが互いに絡み合い、混乱していく。沼崎はその中にあって常にどこか絶望し、無気力である。
もちろん、それは彼のモヒ中毒(モルヒネ中毒)に大きな要因があるのだが、それは決して単純なことではない。彼が中毒に陥った一番大きな原因はもちろん彼の罪の意識である。自分の無知のせいではあるとしても、人を殺してしまったという罪の意識、それが彼を現実逃避へと導いたのだろう。
しかし、戦後日本中にヒロポンをはじめとする薬物が広まったことからもわかるように、薬物中毒というのは彼だけの問題ではなかったし、そのような悪習が広まるのには原因があったと考えるべきだ。
そして、それは“虚脱”である。“虚脱”という言葉は戦後の日本人の心理を表すものとして盛んに使われた言葉で、「お国のため」に必死に戦い生きてきた日本人がその目標を失ったことからくる無気力感をあらわしている。多くの人はこの“虚脱”状態に陥り、無気力に日々を過ごしてしまう。そこに薬物が与えられれば、その魅力に抗うことはできず、どんどんクスリにおぼれていくわけだ。
特に、復員兵の場合には“虚脱”に加えて、さまざまな過去が重荷になり、さらには仕事も見つからず、絶望あるいは自暴自棄に陥ることも多かった。沼崎はそんな復員兵の代表である。
そして、そのほかの登場人物も、戦後の人々の類型を象徴している。佐川は戦後の混乱に乗って権力者に取り入りのし上がっていく人物であり、節子兄である平林は体制迎合の小心者の典型であり、戦中派権力の傘の下で非道なことを行い、戦後は自分がその行いによって罰せられることをただただ恐れる。高倉は戦中・戦後を通して己の信念に従い、新しい日本に希望を持つ。節子は時代の波に揺さぶられながらも自分を失わず、気丈に生きる。
物語は、そのような戦後の人物のあるひとつのパターンを象徴する沼崎が新たな希望を見出していくという展開になっていく。そのような映画を作るというのは新しい日本に希望を持つ知識人らしいあり方である。今から見ると理想主義に過ぎるという気もしないではないが、そのような熱意を持って活動する高倉のような人々によって今の日本は作られていったのだから、その理想をバカにすることはできない。
しかし、物語としてみると、なぜ沼崎が絶望を乗り越え、虚脱を乗り越え、薬物中毒を乗り越えて、新たな人生に希望を託す決意をするのか、その動機付けに今ひとつ説得力がないように思える。さまざまな要因が存在しすぎるために、沼崎の考えていることがわかりにくく、観客は沼崎に同一化することができないのではないか。あるいは、同時代の彼と同じような境遇の人々なら彼に同一化することもできたのかもしれないが、今見ると高倉や節子のほうが同一化するのは容易だ。
そのために映画として漠然とした印象になり、物語として非常に面白いとはいえなくなってしまう。時代の証言、戦後3年というまだそれほど多くの映画が作られていたわけではなく、GHQの検閲も行われていた時代の作品としての価値はもちろん高いが、これからもずっと語り継がれるような名作というわけには行かなかったようだ。