レボリューション6
2006/5/20
Was Tun, Wenn's Brennt
2002年,ドイツ=アメリカ,101分
- 監督
- グレゴー・シュニッツラー
- 脚本
- ステファン・デーンネルト
- アンネ・ヴィルドゥ
- 撮影
- アンドレアス・ベルガー
- 音楽
- ステファン・ツァッハリアス
- 出演
- ティル・シュヴァイガー
- マーティン・ファイフェル
- セバスチャン・ブロムベルグ
- ナディヤ・ウール
- マティアス・マシュケ
- ドリス・シュレッツマイヤー
- クラウス・レーヴィッチェ
1987年の西ベルリン、ティムとその仲間たち6人はデモに参加したり、爆弾を作ったり、それをフィルムに撮影したりという活動をしていた。時は流れて11年後、ティムと車椅子のホッテはアナーキーな活動を続けていたが、他の4人とは決別していた。そんなある日、彼らが昔仕掛けて不発だった爆弾が爆発する…
監督のグレゴー・シュニッツラーはこれまでミュージックビデオなどを手がけており、ドライブ感のある作品を作り出した。
一言で言ってしまえば、これはいまゆる「失われた青春」ものである。青春時代には仲間とハチャメチャをしたけれど、そんな無茶はやめてすっかりおとなしく、体制に取り込まれてしまっている。しかし、その仲間の中で1人とか2人だけはずっとその青春時代の精神を持ち続けていて、バラバラだった仲間がある日その1人の下に集まって青春時代の情熱を取り戻す。そんなよくある話である。
しかし、この映画の場合、その舞台がドイツであり、その経過した時間の間に東西ドイツは統一され、さらにはEUまでが出来上がってしまうというドラスティックな社会変革をも伴っているという点が少し違う。そのような社会変革はそもそもの活動の意味も変化させてしまう。だから、彼らの爆弾が11年のときを経て爆発したとき、その意味は11年前とは変わってしまっているのだ。11年前ならば、数ある過激な若者の実験のひとつとして片付けられていたかもしれないものが、今では完全に過激派のテロと位置づけられてしまう。もちろんそれは世の中が平和になったということでもあるけれど、逆に言えば、画一的な価値観によって世界が支配され、対立するようなものがなかなか出てこなくなったということも意味している。
この映画の終盤で、「もう左や右なんてものはなく、勝ち組と頑固な負け組みがいるだけだ」というセリフが出てくる。“勝ち組”“負け組”なんていう字幕は時代性に追うものでありナンセンスだと思うが、それはともあれ、この考え方こそがひとつの価値観の支配を象徴的に示しているのだ。ここでは資本主義(かつては帝国主義と呼ばれていた)に与するものが“勝ち組”であり、それをかたくなに拒否するものが“負け組”なのだ。そして、私たちは否応なく、そのシステムに巻き込まれてしまう。
それが現実なのだ。
しかし、それが現実だからこそ、この映画には意味があるし、おもしろいのだ。現実の資本主義のからくりによって掠め取られた生活にはない冒険がここにはある。信義を守り続ける男がいて、その男が青春を取り戻してくれるのだ。資本主義という現実におかされて、失われていった若さや自由を彼=ティムによって取り戻すことができる。そしてそれは観客立つ私たちが青春を取り戻すこと、かつて持っていた情熱を記憶の片隅から掘り起こしてくることをも可能にする。それは非常に重要なことだ。
昔持っていた恋愛感情までも取り戻すというのはちょっとやりすぎという気もするが、こんな大人のための青春映画があってもいいと思う。そして、これがハリウッドではなくヨーロッパで作られたというのも重要である。もちろんハリウッドにもこのような映画はある。しかし、ハリウッドは決して資本主義の価値観を否定しようとしない。ハリウッドでは多くの場合、取り戻したはずの青春は再びするりと手からこぼれ落ちてしまう。それでもそれ以前とは変わって、より活力があり幸せな生活を送ることができるようになった、よかったよかったという感じで終わるがこの映画は違う。結末については言わないことにするが、そんなこんなではじめから終わりまでハラハラしながらついニヤニヤしてしまうような映画だった。